逸見氏
新羅三郎源義光の次男の義清を祖とする一族。義清は当初は常陸国にあったが清光が咎めを受けたことで1130(大治5)年に父子ともに甲斐市河荘へと移った。配流処分とはいえ、荘官としての赴任であったために一族郎党を引き連れて、しかも、甲斐は父親の義光に所縁のある地であったために勢力をかえって伸ばすこととなった。甲斐での本拠地は平塩の館とも義清神社のある場所とも言い伝えられている。
甲斐源氏の嫡流の座を武田氏と争うほどだったが、和田合戦で和田義盛方に与したために惣領の座を確保することはなかった。しかし、室町時代に上杉禅秀の乱で上杉禅秀に与した武田氏が没落すると、逸見有直は鎌倉公方足利持氏と組んで甲斐を実効支配するまでに至っている。但し、この逸見有直は武田信義の四男の有義の子の有信の系統。
このように、逸見氏には幾つかの流れがある。いづれも新羅三郎源義光の次男の義清を祖とするがおおよそ4系統が知られている。ここに詳しく掲げたのは逸見氏の本来の嫡流で、清光の子の光長に始まる系統。光長は1180(治承4)年に、源 頼朝の命を受けた北条時政とともに、平家方の駿河目代長田入道を、武田太郎信義、次郎忠頼、三郎兼頼、兵衛尉有義、安田三郎義定、河内五郎義長、伊沢五郎信光ら同族とともに討ち取ったことで知られている。また、罪を問われていた源 季貞の子の飯富源太宗季を猶子として迎えている。飯富とは上総国飯富庄のことであり、ここに逸見氏と飯富氏が遠戚関係にあったことが分る。光長の子の基義は和田合戦(1213)で和田義盛の陣営に加わっている。基義の子の惟義は承久の乱(1221)では関東守護に任じられ、恩賞として摂津国三条院勅旨田を受領している。また、惟義の子の義重も承久の乱で美濃国大井戸での功績によって美濃国大桑郷を得ている。その後の光長系逸見氏はさして振るわず、室町時代の1351(正平6)年に上杉憲将が逸見孫六入道と高 師冬を甲斐須沢城に攻めたことが『信濃勤王史攷』に見られるのみとなっている。
逸見四流のうちでは、小弓公方足利義明の家臣逸見祥仙、若狭武田氏被官で織田信長に仕えた逸見昌経が知られる。更に、逸見氏庶流としては武田二十四将、武田四天王の一人である飯富虎昌がいる。