東光寺
甲府五山の一つ。臨済宗妙心寺派で山号は法蓋山。甲斐源氏の遠祖である新羅三郎義光の祈願所として創建されたのが始まりと伝わる。当初は臨済宗寺院ではなく、「興国院」と号する密教寺院だった。しかし、1268(文永5)年に鎌倉の建長寺の開山である蘭渓道隆(1213-1278)が甲斐に配流時に「興国院」に逗留したことから臨済宗へと変わったとされる。その関係で北条時宗から五山十刹の中の諸山にも列せられた。
この東光寺は、武田信玄が諏訪頼重を切腹させた寺、更には、息子の義信を自害に追い込んだ寺としてのほうが有名だろう。諏訪頼重は一族の高遠氏、金刺氏と組んだ武田信玄に攻められ本拠地の上原城を追われ桑原城に篭城するも虚しく、武田軍と和睦。しかし、1542(天文11)年に甲府に連行され切腹させられた。その娘が信玄の側室となって武田氏の事実上の最後の当主武田勝頼を産むことになる。
諏訪頼重の墓
諏訪頼重の墓の向かって左に武田義信の墓がある。義信は信玄の嫡男であったが、1560(永禄3)年に桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討ち取られると、今川領内への侵攻を巡って父親の信玄と対立。妥協点を見出すことが出来ないまま、謀反の疑いを掛けられ、東光寺へと幽閉され2年後に亡くなった。死因は病死だとも自害して果てたとも伝わり定かではない。武田は嫡男の義信の死によって、諏訪頼重の娘の諏訪御料人と信玄との間に産まれた勝頼が家督を承継し滅亡を迎える。この二人が同じ東光寺で自害したというのは何かの因縁だろうか。
武田義信の墓。左右の二基は殉死者の墓
二人の墓の前にある仏殿は見事な室町時代の建立で国の重要文化財。1582(天正10)年の織田信長による侵攻と1945(昭和20)年の米軍による空襲を免れて中世の息吹を現在に伝えている。