靖国神社

  都営新宿線、営団東西線の九段下駅を出るとすぐ目の前にある。近くには、江戸城田安門があるしフェアモントホテルなどがあった。
 フェアモントホテルは桜の季節になると千鳥ヶ渕の満開の桜の回廊を練り歩く人たちの終着点だった。かくいう私も桜の季節はもちろん、それ以外の季節でもしばしばフェアモントに立ち寄りコーヒーで喉を潤した。
 今でもしばしば三番町から千鳥ヶ渕を抜けて九段下へ歩くがフェアモントが無くなってしまったのは寂しい。
 さて、この靖国神社は明治2(1869)年に戊辰戦争の犠牲者を「宗教や身分に関係なく、その死を平等に祀ること」を目的として設立された「招魂社」が前身。「招魂社」は大村益次郎の発案により土地の選定が行われ、長州藩とゆかりのある斎藤弥九郎の主催する練兵館の地に置かれた。参道に立つ大村益次郎の像はこの由来を物語る。桂小五郎(木戸孝允)は練兵館塾頭だった。
 さて、招魂社を建てた大村益次郎(村田蔵六)は、周防国鋳銭司村に生まれ広瀬淡窓に儒学を、緒方洪庵に蘭学を学び宇和島藩で兵学者として頭角を現す。その後に江戸に出て、幕府の講武所教授として活躍するとともに私塾「鳩居堂」を開く。そして、幕末の動乱期に桂小五郎の推挙によって長州藩に仕え、第二次長州征伐(慶応2年)の石州口の戦で幕軍を破ったのを始めとして彰義隊討伐を指揮した。軍事局判事、大総督府の重職を任じて東北を平定、兵部大輔として徴兵制による鎮台兵制の整備を進めるも士族の反発を受け、靖国神社の前身の招魂社を建立した年に京都で兇刃に倒れた。
 招魂社は、その後、嘉永6(1853)年のペリー来航以来の殉死者を合祀し、明治10年の西南戦争の後には戦死者を祀るという性格を持つようになる。
 そして、明治12年には招魂社は靖国神社と名前を変える。
 この靖国神社には白い鳩しかいないということでも有名である。


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