嘉吉の乱始末
そして、1441(嘉吉元)年6月24日に、赤松家主従は赤松邸での宴に呼ばれた室町幕府将軍足利義教を殺害するに至る。これが世に言う嘉吉の乱である。邸内の指揮は満祐の末弟の赤松左馬助則繁が執った。当時、兄弟で伊予守義雅、彦五郎祐尚があったが、満祐の苦悩を一番理解していたのが則繁だったのだ。この乱によって、相伴していた大内持世、京極高数、三条実雅も凶刃に倒れた。一方で、管領細川持之と侍所頭人山名持豊は赤松の軍勢に刃向かうことなく赤松邸を退去した。
赤松軍は油小路から領国播磨に下ったが、その途上で幕府からの追討も、諸大名からの妨害も無かった。赤松軍の気の緩みはここで生じたのかもしれない。赤松軍は足利直冬の孫で備中井原善福寺にあった善福寺御所を将軍として推戴し追討軍に備えた。軍師喜多野性用によって、明石蟹坂に赤松彦次郎、丹波国境の三草口に宇野能登守、但馬口に赤松伊予守、因幡国境の戸倉口には赤松満祐の甥の彦五郎、美作口には左馬助を配する。
蟹坂は海と陸から押し寄せる細川讃岐守詮春、六角四郎高頼両軍によって蹂躙され、西からは山名修理大夫の軍勢が押し寄せ、赤松軍は守護所としての性格上、濠一重、土塁一重の平城であり、細川・山名両軍に攻められれば一たまりもなしと、更に奥にある揖保川を濠とする城山(きやま)へ退いての篭城を決定する。城山は赤松主従最後の地となり、ここで7ヵ所傷を負った赤松満祐は山名軍に攻められて一族郎党73人と自刃。その直前に、彦次郎近習の上月左近、小寺藤兵衛、中村弾正、石見太郎、間島彦太郎は赤松家再興のために宗家の血縁者を逃し守り抜くことを誓う。間島彦太郎の従った赤松伊予守義雅は庶流に当たる赤松満政の軍門に下るが切腹を余儀なくされる。千代丸時勝は赤松家所縁で建仁寺にあった天隠和尚の智恵で母親の実家の三条家所縁の近江丁野村定願寺に落ち延び早世したものの、法師丸という遺児を残した。この法師丸が後々赤松家復興の旗頭となる。
小寺藤兵衛の従った赤松彦次郎は妻の実家の北畠教顕を頼ったが、案内された薬師堂で北畠軍に囲まれ、井口三郎、小河勘解由左衛門、別所肥後守、多賀谷中務らと赤松彦次郎主従は自刃。若かった小寺藤兵衛は後事を託されて落ち延びた。小寺藤兵衛は興福寺門跡大乗院に仕える福智堂の伝手で長順坊に仕官する。
石見太郎は赤松家と親戚であった三条家に仕官。諸国に散った赤松一党の連絡役となる。
中村弾正の従った左馬助は朝鮮半島に渡った後、九州の少弐家に加担し大内家との戦いに身を投じるも敗れ播磨に戻ってくる。しかし、播磨での山名軍の追及をかわせず、畠山持国を頼るが、管領細川勝元に攻められ当麻寺にて自刃して果てた。中村弾正は備前で戦死している。
上月左近の従った彦五郎則尚は九州に逃れた後に播磨に帰還。嘉吉の乱後の論功行賞に不満の赤松満政とともに赤松旧臣を集めて龍野城で蜂起するも山名軍に又しても敗れる。赤松満政は同族の摂津有馬の赤松持家を頼って敗走するが逆に討たれて露と消えた。彦五郎則尚は尚も逃れ、遂に、1454(享徳3)年、赤松家復興を潰した赤松持家の子の赤松元家の尽力でお家復興を掴む。赤松元家は室町幕府将軍足利義政の治世で側室お今、側室を出した烏丸卿と同じく側室を出し有馬の赤松として三魔に数えられていた。この赤松家復興に山名宗全が猛然と異議を唱え、遂に播磨の鵤庄檀特山に陣を構えた彦五郎則尚を攻めた。この時点で赤松家は赦免されても播磨国守護職までは得ていないので播磨守護の山名宗全が討伐するのは当然と言える。彦五郎則尚は復興まで後一歩のところで敗れ備前鹿久居島で自刃。ここに赤松宗家の主だった人物は世を去った。
このような情勢の中でも赤松旧臣は諦めず、やがて、石見太郎、堀兵庫助、依藤弥三郎、明石修理亮らの尽力によって南朝から神璽を奪回し、南朝の忠義王、自天王を討てば赤松伊予守義雅の孫の赤松次郎法師丸による赤松家家督相続と領国を与えることが御内書と綸旨が出される。これを受けて、赤松旧臣は吉野の南朝方に間島彦太郎を赤松左馬助の遺児赤松主馬と偽らせて加勢する。そして、北山郷御座所で自天王を丹生屋兄弟が討ち神璽を奪回、河野郷で忠義王を上月左近が討つに至る。ところが話はここで終わらない。神璽は山中で奪い返され、本石大膳によって守られた自天王の遺児とともに南朝方の手元に戻された。ここに、小寺藤兵衛が国栖村の土豪小川中務の援助によって再び神璽を奪回。小川中務は朝廷に褒章を要求したために難航したが、越智氏、伊勢国司北畠教具の説得によって1458(長禄2)8月30日に神璽は京都に戻った。ここに、赤松家は約束通りに加賀半国、備前新田庄、伊勢高宮保を与えられ復興を果たしたのである。