長講堂

京都の五条駅から歩いて長講堂へと向かう。長講堂へは実は以前訪れたことがある。今回で2度目。

もとは後白河法皇が仙洞御所に営んだ持仏堂。正式な名前は法華長講弥陀三昧堂。1183(寿永2)年に法皇が近習の平 業忠の六条西洞院邸に移ると持仏堂も六条西洞院邸に移り六条長講堂と名前を変えた。その後、法皇は1191(建久2)年に自分の荘園を長講堂に寄進。やがて、八条院領とともに皇室領で抜きん出たものとなる。後白河法皇は寵姫丹後局所生の宣陽門院覲子内親王に、この長講堂領を相続させた。宣陽門院は長講堂に移住し、源通親を院別当に任命して管理に当たらせた。後鳥羽上皇が雅成親王を宣陽門院の猶子として送り込んで長講堂の支配を目論むが、雅成親王が鎌倉幕府に対する承久の乱に与したために長講堂領は一時没収の憂き目にあう。結局、長講堂領は宣陽門院に戻された。宣陽門院の死後は後深草上皇から伏見天皇、後伏見天皇、花園天皇、光厳天皇、崇光天皇、後小松天皇と持明院統に伝えられた。

この間、1273(文永10)年には火災に見舞われ、後深草上皇は土御門油小路に移転の上で再建した。更に、応仁の乱等で荒廃。1588(天正16)年に豊臣秀吉によって富小路五条下ル本塩竈町の地に移って現在に至っている。


2007年5月17日(木)訪問


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