秩父永田城跡
後北条氏の小田原城の出城と言われ、鉢形城主北条安房守氏邦の家老、井上三河守が守ったという。あるいはまた氏邦の家臣寺尾彦三郎の居城だったともいう(『秩父志』)。
かつての城の中心には秩父22番札所として有名な永福寺があるが、その境内の不浄の後ろは急斜面の崖となっており、かつての城の姿を想起させる。
なお、写真は永福寺から23番札所へと至る道の途上にあり、4本の梅の木が目印の堀跡。この堀は約90メートルにわたって現存しており土塁上には虎口がはっきり分かる。地元の方の話によると食糧難の時代に堀を水田としたものの、今では草むらとなっている。
後北条氏が支配する前の永田城は、武蔵七党の丹党中村氏の城だったという。
永田城のあたり(中村)は平 将常が居所としていたことで知られる。将常秩父氏を名乗り、孫の重綱は武蔵留守所総検校に任命され勢力を広げ、その子孫には畠山氏、江戸氏がいる。但し、桓武平氏流秩父氏は比較的早くにこの地を離れ、そのためにこのあたりは武蔵七党流の中村氏が支配した。
また、永田城跡のすぐそばには、「キャッツアイ」という安くて美味しい定食のお店がある。