岐阜城
金華山という山に築城されているが、最初に城を築いたのは鎌倉幕府執事の二階堂行政で建仁年間(1201-1204)のこと。行政は藤原南家の出身で鎌倉幕府創建に伴って三善康信、大江広元とともに京都から鎌倉に招かれて二階堂に居を構え二階堂氏を称した。その行政が京都と鎌倉との間にあって京都への押さえとして稲葉山(金華山)に砦を築いたのだと伝わる。行政の後、行光、行盛、行有と続き、行藤の代になって1259(正元元)年に稲葉山城主として美濃を統治した。その子の貞藤も政所執事を務め鎌倉方として千早城攻めにも加わったが、才覚を買われて罪を許された。
稲葉山城主に関しては、二階堂行政の娘婿の佐藤伊賀守朝光が城主を引き継いだが、1221(承久3)年の承久の乱で上皇方に付いたために朝光の子の伊賀光宗、朝行、光重は配流となる。稲葉山城主を継いだのは弟の伊賀光資こと稲葉三郎左衛門尉。これが、後に、斉藤道三のもとで、氏家直元と安藤守就とともに「西美濃三人衆」と呼ばれた稲葉通則の祖ということになる。
その後、美濃の守護土岐氏の筆頭家臣斎藤氏の居城となり、次いで斉藤道三、道三の孫の龍興の居城となる。その龍興を織田信長が1567年に倒し稲葉山城を岐阜城と改めて居城とし安土城に移るまで約10年間居城とした。
惜しむべきは、1600年に関が原の戦いで織田信長の孫の秀信が西軍に与したために徳川方に攻められて落城。城は解体されて天守閣などの築造物は加納城に移されてしまったこと。今回、見学したのは昭和31年に再建された鉄筋コンクリートの城。