滝口寺


檀林寺の前を通り過ぎて、道を登ると祇王寺がある。ここは嵯峨野の紅葉の名所の一つである。祇王寺で大覚寺との拝観共通券を購入して、祇王寺を堪能する前に、そのすぐ横というのか脇にある滝口寺を先に訪れる。

 滝口寺を訪れる目的は、かの滝口入道の悲恋悲話に思いを馳せることにあるのではない。もちろん、滝口寺といえば、滝口入道のエピソードをもとにして、明治維新後に廃寺となっていた往生院三宝寺を祇王寺とともに復興の上、歌人佐々木信網が高山樗牛の歴史小説「滝口入道」に因んで命名した寺としてつとに知られている。
 さて、それでは、何を目的として、滝口寺に足を踏み入れたのか。他でもない、この滝口寺にある鎌倉幕府倒幕の重要な立役者、新田義貞の首塚に詣でるためだ。
 新田義貞は、言うまでもなく鎌倉時代の関東の武将。元弘の乱に際して、鎌倉幕府軍の一翼を担い出陣するも、本貫の地である新田庄における北条被官による横暴を契機として、鎌倉幕府に反旗を翻し新田庄から鎌倉街道を一気に南下して鎌倉の地に侵攻し、北条一族を族滅させた(正慶2[1333]年)。
 建武の新政で左兵衛督に任ぜられるも、同じく源氏の足利尊氏と対立し、一時は尊氏を九州に駆逐する。しかし、九州勢を加えた足利軍に「湊川の戦い」で敗れる。再起を図り、恒良親王・尊良親王を奉じて越前金崎城で足利軍と激闘を繰り広げるも敗戦。翌年、藤島で戦死し、三条河原で晒し首となった。
 その新田義貞の首は勾当内侍によって往生院三宝寺に埋葬された。寺の入り口を入って直ぐ左に、重臣達を伴う塔が立つ。この塔を見るとき、北条一族が揃って腹を切った東勝寺跡の塔を思わずにはいられない。いづれも、兵達が夢のあとなのか。それにしても、北条を打ち破った新田義貞の世の如何に短かったことか。
 さて、この寺は、その鎌倉幕府が樹立される以前に、小松内大臣重盛が家臣斎藤滝口時頼が花見の席で建礼門院の女官横笛を見初め、恋に落ちるが父親の反対に合い、出家を遂げることで横笛への思いを断ち切ろうとした物語の舞台。滝口時頼の出家を知った横笛もまた滝口時頼を慕って滝口寺に赴くも、滝口入道は未練を断ち切るために横笛に会うことを拒む。その後、滝口入道は募る一方の横笛への思いを忘れようとして嵯峨野の地を離れ、遠く高野山に登る。横笛も滝口入道の後を追い法華寺で出家し、それを知った入道が
「そるまでは恨みしかとも梓弓 まことの道に入るぞ嬉しき」
との歌を、横笛が
「そるとても何か恨みむ梓弓 引きとどむべき心ならねば」
との歌を返したというエピソードが伝えられる。横笛はそのすぐ後に募る思いを胸にこの世を去り、滝口入道はその思いと自らの思いを胸に秘めてさらなる修行に打ち込んだという。


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