金崎宮(敦賀_越前)
この一帯は、かつて金ヶ崎城があった所。
源平の戦いに際して、平通盛が木曾義仲と対峙するために陣を布いたのが始まりとされる。
また、南北朝時代、延元元(1336)年に後醍醐天皇の皇子である恒良、尊良両親王を守護した新田義貞が足利軍と戦った古戦場としても知られる。
新田義貞と弟の脇屋義助は気比社大官司気比氏治の招きによって両親王を奉って金ヶ崎に入る。しかし、足利方の越前守護斯波高経が包囲する。
これに対して、杣山城主瓜生保が斯波高経を討つために参戦を試みるも、今川頼貞によって途上で撃破され瓜生保自身の戦死という結果に終わり惨敗。
この中、新田義貞と脇屋義助は戦線を両親王を残して金ヶ崎城を脱出し起死回生を図る。ところが、この作戦は裏目に出る。
足利軍は城に総攻撃によって金崎城は落城。城に残っていた新田義貞嫡男の新田義顕と尊良親王は自害。逃れた尊良親王も足利軍によって捕虜となり殺害される。
その後、越前守護代甲斐常治と若狭守護斯波義敏との戦闘の場ともなった。
朝倉社が境内摂社としてあるが、これは織田信長が朝倉氏を攻めた時に、敦賀郡司朝倉景恒が敦賀城と呼ばれていた金ヶ崎城を守ったことに由来する。
こうした数々の戦闘の歴史を持つ古戦場は、明治26年に尊良親王を金崎山へ祀ったのが金崎宮の始まり。
2004年8月22日(日)訪問。