宮城県>多賀城

多賀城址

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宮城県は多賀城市にある陸奥国府の城址。

築城は724(神亀元)年で按察使大野東人(-742)によるとされる。

大野東人は720(養老4)年に勃発した蝦夷の叛乱を征夷将軍・多治比縣守が鎮圧した直後に築城を行った。それまでの国府は仙台の郡山遺跡の地にあったが、多賀城の地に移転した。

多賀城の地は蝦夷と大和朝廷の勢力圏の境界に当たる松島丘陵に連なる塩釜丘陵に位置している。将に前線基地という名が相応しい軍事施設であったということが出来る。

729(天平元)年には陸奥鎮守府将軍に任ぜられ、多賀城から出羽柵への道を開通させるなどの功績を挙げた。東人は740(天平12)年に大宰少弐・藤原広嗣が九州で起こした叛乱を鎮圧するために持節大将軍として派遣されたために多賀城を後にした。

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続いて、恵美押勝を父とする陸奥守兼鎮守将軍・藤原朝狩によって762(天平宝字6)年に第

774年から811年にかけては大規模な三十八年戦争が勃発。780(宝亀11)年に蝦夷出身で在庁官人でもあった伊治砦麻呂の叛乱によって多賀城は焼き払われた。

三十八年戦争が鎮圧され、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷の長である大墓公阿弖利爲(アテルイ)を下すと東北地方は安定期に入る。

その間、多賀城の復興がなされた。しかし、安定期を迎えたことで、軍事的最前線としての位置づけは薄れ、869(貞観11)年の大地震からの復興の後、10世紀半ばには廃れた。

最後に多賀城が使われたのは南北朝時代に陸奥鎮守府が置かれた時。北畠親房・北畠顕家親子が、義良親王(後村上天皇)を奉じて多賀城を拠点として、南部氏、結城宗広、伊達行朝らを従えて、足利尊氏方である斯波氏に対抗した。

1337(延元2)年に足利方の攻勢に敗れ、陸奥鎮守府は伊達行朝の拠点である霊山へと一時的に避難。再び盛り返すも、北畠顕家の戦死後は振るわず、室町幕府から送り込まれた吉良氏、石堂氏、畠山氏、石橋氏、斯波氏らによって攻略され廃城に追い込まれた。

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