高望王は898年に上総介に任ぜられると、当時の慣例に破って、長男国香、次男良兼、三男良将を伴って京都の地を離れ上総に下向した。
同じく高望王の子であった平良文は母が正室の藤原良方の娘ではなく、側室の藤原範世の娘であった関係から京都に留まった。
下総国を勢力圏としていった三男良将の子が平将門。良将が早世すると、前常陸大掾の源護の婿として常陸国を勢力圏においた国香や、上総国の良兼らの伯父と干戈を交えた。
この平将門の乱以前に京都に留まっていた平良文は武蔵国村岡に下向。国香、良兼とは仲が良くなかったため、将門に与して戦ったと考えられている。
『源平闘諍録』には平良文が甥の将門の養子になっていたという記述がある。
それはともかく、父の平忠頼は村岡次郎を称し、平国香の子である平繁盛と対立。武蔵押領使でありながら、常陸国、上総国、下総国にも勢力を拡大していったことが対立の原因となっている。
忠頼の子の忠常は父から承継した勢力基盤の実効性を確実なものとするため、上総国府、安房国府を攻撃。特に、1028(長元元)年6月、忠常は安房国の国府において安房守平惟忠を焼き殺した。
この事件を受けて朝廷は、平国香の孫・維将の孫・平直方(在鎌倉)を派遣。しかし、忠常の勢いは収まることを知らなかったため、平忠常の主家である源頼信(源満仲の三男)を派遣。
結果、平忠常は源頼信に投降した。
平忠常は京都への連行の途上で病死。一方、その子の常将と常近は罪を許され上総氏、千葉氏となって房総に勢力を張って行った。