ペトラ[Petra]は死海[Dead Sea]とアカバ湾[Gulf of Aqaba]の間の渓谷にある遺跡.
紀元前1世紀ごろ,それまでの住民であるセム系民族のエドム人を駆逐したナバテア人[Nabataeans]が首都とした.
B.C.64年頃に,ローマの第1回三頭政治の雄ポンペイウス[Gnaeus Pompeius Magnus,B.C.106-B.C.48]の支配下に置かれながらも自治が維持された.
ナバテア王国[Nabataean Kingdom]最後の王であるラッベル2世ソテル[Rabbel II Soter]が死去すると,ラッベルに後継者オボダス[Obodas]がいたものの,第3軍団キレナイカ[Legio III Cyrenaica]がエジプトから侵攻.シリアに駐屯していた第6軍団フェッラタ[Legio VI Ferrata]もボスラに侵攻する.ローマ帝国のネルウァ=アントニヌス朝[Nerva-Antonine dynasty]の第2代皇帝トラヤヌス[Marcus Ulpius Nerva Trajanus Augustus;53-117]による命令によって,アラビア・ペトラエア[アラビア属州,Arabia Petraea,Provincia Arabia]としてローマ帝国領に編入された.トラヤヌスはボスラを州都として,州都名をトライアネ[Traiane]と改める.但し,ローマ帝国の属州総督[rector provinciae,governor]はボスラとともにペトラも支配拠点とした.ペトラは,また,第3軍団キレナイカ[Legio III Cyrenaica]の軍事拠点としても用いられた.
ペトラの歴史はローマ帝国に組み込まれたことで終焉を迎えた訳ではない.
ペトラが忘れられる契機となったのは663年のイスラム帝国のウマイヤ朝[Banu Umayya;661-750]による征服と交易路の変更であった.
Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.