シャンボール城[Château de Chambord]はヴァロワ朝第9代国王フランソワ1世[François Ier,1494/9/12-1547/3/31]が築城.
フランソワ1世に招かれたレオナルド・ダ・ヴィンチ[Leonardo da Vinci,1452/4/15-1519/5/2]も城の設計に関与したと言われる.フランソワ1世は,この城を自らの権威を示すために用い,神聖ローマ帝国皇帝カール5世[Karl V.,1500/2/24-1558/9/21]を招いてもいる.
但し,フランソワ1世はこの城を居城とはしていない.居城としていないどころか,ほとんど滞在することもなかった.そして,城は顧みられることが無くなっていった.
アンリ4世の子であるオルレアン公[duc d'Orléans]ガストン・ジャン・バティスト・ド・フランス[Gaston Jean Baptiste de France,1608/4/25-1660/2/2]は,ブルボン朝第2代国王ルイ13世[Louis XIII,1601/9/27-1643/5/14]によってシャンボール城を下賜される.オルレアン公と,その甥でブルボン朝第3代国王ルイ14世[Louis XIV,1638/9/5-1715/9/1]は城の改修を行った.
1725年から1733年に掛けては,ポーランド・リトアニア国王[在位:1704-1709]であったスタニスワフ1世レシチニスキ[Stanisław I Leszczyński,1677/10/20-1766/2/23]が滞在している.スタニスワフ1世レシチニスキはブルボン朝第4代国王ルイ15世[Louis XV,1710/2/15-1774年/5/10]の妃マリー・レクザンスカ[Marie Leszczyńska,1703/7/23-1768/7/24]の父.スタニスワフ1世はプファルツ朝[Pfalz]スウェーデン王カール12世[Karl XII,1682/6/17-1718/11/30]によってポーランド・リトアニア王に擁立.大北方戦争[Great Northern War,1700-1721]のポルタヴァの戦い[Полтавская битва,1709/6/27]でカール12世が初代ロシア皇帝ピョートル1世[Пётр I Алексеевич,Pyotr I Alekseevich,1672/6/9-1725/2/8]に敗れるとスタニスワフ1世はポーランド・リトアニア王位を失いアルザスに亡命.
1733年にポーランド・リトアニアでアウグスト2世モツヌィ[August II Mocny,1670/5/12-1733/2/1;ザクセン選帝侯]が亡くなると,ルイ15世の支援のもと,スタニスワフ1世は再びポーランド・リトアニアでの王位を狙ってポーランドへと向かい城を離れた[ポーランド継承戦争,Polnischer Thronfolgekrieg].
その後,城はポーランド継承戦争やオーストリア継承戦争で戦功を挙げたエルマン・モーリス・ド・サックス[Hermann Maurice de Saxe,1696/10/28-1750/11/30]に下賜された.ラ・ルート伯爵およびサックス伯爵[comte de la Raute,comte de Saxe]ド・サックス元帥[Maréchal de Saxe]はザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト2世の庶子.
ド・サックス元帥が死去した後は城は住む人がなくなり放置された.
Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.