バトゥリン[バトゥールィン]要塞はウクライナのヘトマン[гетьман,hetman]の居館.Запoвідник[Гетьманська столиця,Hetman's capital].バトゥリン[バトゥールィン]は1625年にポーランド・リトアニア同君連合の国王である選挙王ステファン・バートリ[Stefan Batory,1553/9/27-1586/12/12]に因んで建設された都市.現在のウクライナのチェルニーヒウ州にある.
ウクライナにおいてウクライナ・コサック指導者でありヘトマンであったボフダン・フメリニツキー[1595-1657/8/6]がフメリニツキーの乱[1648-1657]を起こしヘトマン国家を樹立するとバトゥリン[バトゥールィン]は自治権を獲得している.フメリニツキーの乱を契機としてロシア・ポーランド戦争[1654-1667]が勃発.1667年にポーランド・リトアニア同君連合とロシア帝国がアンドルソヴォ条約を締結すると,ウクライナのヘトマン国家はドニプロ川を境界としてロシアとポーランド・リトアニア同君連合に分割された.ロシアに併合されたヘトマン国家は左岸ウクライナと呼ばれ,1669年から1708年までの間においてバトゥリン[バトゥールィン]は左岸ウクライナの首都であった.
ヘトマンというのはポーランド王国およびリトアニア大公国[Polish–Lithuanian Commonwealth,1569-1795]においてウクライナの指導者のこと.王冠領大ヘトマンはポーランド大法官を兼任することが多く,ウクライナだけではなくポーランドの首相に当たる地位にあった.