ブハラ[Buxoro/Бухара́]はウズベキスタンのブハラ州の州都.ウズベキスタンの古都サマルカンド[Samarkand]とともにアムダリア川とシルダリア川の間に広がる西トルキスタン[ソグディアナ,Sogdiana;Transoxiana]の中心都市とされる.ブハラという地名はサンスクリット語で「僧院」を意味する Vihāra , Vihāraḥ に由来.
当初はソグド人の商業都市であったが,イスラーム勢力の進出によりイラン系イスラム王朝であるサーマーン朝[Sāmāniyān,873-999]の首都となる.1220年にはチンギス=ハンにより征服され破壊.後にティムールによって再建された.
ティムール朝サマルカンド政権はウズベク人のシャイバーニー=ハンが1500年に倒しテュルク系イスラム王朝のシャイバーニー朝を樹立.ブハラはシャイバーニー朝の首都となる.
モスクワ大公国にヴォルガ下流のアストラハン朝[Actarxan]が滅ぼされると,王族のヤール・ムハンマドはシャイバーニー朝に亡命.ヤール・ムハンマドはシャイバーニー家の王女ザフラー・ハヌムとの間にジャーニー・ムハンマド・ハーンをもうけた.
1598年にシャイバーニー朝のアブドゥッラーフ2世[Abdullah Khan II,1533/4-1598]の死後,ハン位を継承した子のアブドゥル=ムウミン[Abd al-Mumin]が暗殺され国内は混乱.ハン位は王族であるピール・ムハンマド2世[Pir Muhammad Khan II]が継承するもすぐに亡くなりシャイバーニー朝の王統が断絶.ジャーニー・ムハンマドの次男のウズベク・バーキー・ムハンマドが推挙されてハン位に就きジャーン朝[Janid Dynasty]が成立.ジャーン朝はその出身からアストラハン朝とも呼ばれる.ブハラはジャーン朝でも首都とされた.
ジャーン朝は1756年にマンギト部族出身で宰相のムハンマド・ラヒームのマンギト朝[Manghud]にとって代わられた.シャイバーニー朝・ジャーン朝・マンギト朝は合わせてブハラ・ハン国[Buxoro Xonligi;1500-1920]と呼ばれるが,ブハラは一貫してのブハラ・ハン国の首都であった.
隋唐時代には『安国』,『布豁』,『捕喝』と呼ばれた.