戦国七雄

周王朝の第2代王の成王の弟・唐叔虞[姫虞,子于]が唐に封じられたことを起源とする晋[B.C.11c-B.C.376]は春秋末期に范氏・智氏・中行氏・趙氏・韓氏・魏氏という四氏六家系によって支配された.このうち,范氏・中行氏が滅びるた後も智氏・趙氏・韓氏・魏氏の勢いは増す.B.C.453年,趙・魏・韓が智瑶を滅ぼし晋は三卿が権勢を誇る形に.

出公[姫鑿;在位B.C.475-B.C.452]は斉と魯と連合し趙・魏・韓を討伐することを試みるも,逆に攻められ楚に亡命を余儀なくされた.三卿は昭公の曾孫の哀公[姫驕;在位B.C.452-B.C.434]を晋公として擁立.その後,幽公[姫柳;在位B.C.434-B.C.416],烈公[姫止;在位B.C.416-B.C.389]と続く.

B.C.404年に,烈公は斉の討伐を韓・景侯[韓虔],趙・烈侯[趙籍],魏・文侯[魏斯]に下命.晋は斉に勝利.これに対して,周王室の威烈王[姫午;在位B.C.425-402]が三卿を韓侯・趙侯・魏侯として諸侯に封じた.この三家分晋と呼ばれる事態によって晋は事実上分裂.但し,晋自体はその後も,孝公[姫頎;在位B.C.389-B.C.357],静公[姫倶酒;在位B.C.357-B.C.349]と続く.

B.C.357年,魏・韓・趙が晋に侵攻.ここに晋は滅亡する.

以降,戦国時代へと突入し,諸侯領は秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓の七国へと併呑された.

七雄諸侯国

嬴姓趙氏.B.C.770年-B.C.206年.
姞姓.B.C.1046-B.C.223年.
現在の北京に当たる薊を首都とした.燕王噲[在位B.C.320-B.C.318]が子之宰相に国政を任せきりとなったために国政が混乱.これに対して,太子平が挙兵.孟子の献策を入れた斉の宣王[媯田辟彊,在位B.C.319-B.C.301]が匡章将軍を派遣し軍事介入.これにより燕は一時とはいえ斉の占領下におかれた.この混乱の中,燕王噲・太子平ともに落命.公子職が昭王[在位B.C.312-B.C.279]が斉により擁立.やがて,昭王は斉から自立し,楽毅に用いて斉を打ち破る.楽毅なき後,斉は復興.B.C.228年に趙が秦によって滅ぼされると,燕は秦と国境を接することとなる.秦に脅威を覚えた燕太子丹[姞丹]は秦王政暗殺のため荊軻を派遣するも失敗.逆に秦王政による燕侵攻を招く.秦の李信将軍,王賁将軍により燕王喜は捕虜となり滅亡.
羋姓熊氏.-B.C.223年.
息・蔡・陳を併合し大国となる.秦の王翦将軍,蒙武将軍による侵攻を受け,楚王・負芻[熊負芻]は敗北し捕虜となる.楚・考烈王と秦・昭襄王の娘との間に生まれ秦にあった昌平君が秦により楚王に擁立.秦に叛旗を翻した昌平君は王翦・蒙武将軍に攻められ討死.これにより楚は滅亡.
嬴姓趙氏.B.C.403-B.C.222年.
秦の王室と同祖とされる.B.C.453年に晋から魏・韓・趙として独立.B.C.295年,恵文王と公子章の間の後継者争いが勃発.譲位していた武霊王が幽閉されて死去.B.C.262年,秦は白起将軍が韓の野王を攻略.これにより,韓の領土は分断され,上党郡は孤立.韓の桓恵王は上党郡の秦への割譲を模索するも,上党郡守の靳黈が拒否.代わりに郡守として派遣された馮亭は郡民の懇願により趙と結ぶ道を選ぶ.これを受けて趙の孝成王は上党郡を併合.対する秦の昭襄王はB.C.262年に王齕将軍に命じて上党郡へ侵攻.趙は廉頗将軍を派遣.両軍は長平において対峙.秦は計略を用いて趙軍の将軍を趙括への交代を実現.廉頗将軍が解任されると,秦は白起将軍を派遣し退却と見せかけて趙軍を誘い出し分断し殲滅.残る趙軍が籠城する長平城を完全包囲.兵糧が尽きた趙軍は最後の攻撃を敢行し趙括将軍は討死.白起将軍は捕虜を趙に返すと禍根を残すと考え趙軍捕虜45万人を処刑したと伝わる.さらに,趙は首都・邯鄲をも包囲されるが,楚の春申君や魏の信陵君の支援により窮地を脱し秦軍を撤退させた.
B.C.236年,悼襄王[趙偃,在位B.C.244-B.C.236]の命令で龐煖将軍が燕へと侵攻.その間隙を突いて,秦は王翦・桓齮・楊端和の三将軍を派軍.幽繆王[趙遷;在位B.C.235-B.C.228]は匈奴を大敗させて戦歴を持つ李牧に迎え撃たせた.番吾の戦い[B.C.232]において,秦・趙両軍が激突.李牧は勝利し韓・魏の国境までの領土を回復する.李牧が讒言を受けた幽繆王により命を奪われると,B.C.228年に秦王政は趙の首都である邯鄲へと侵攻し幽繆王を捕虜とし趙を併合.幽繆王の兄の公子嘉が代郡[Dài jùn]へと亡命し趙の亡命政権である代国[B.C.228-B.C.222]を樹立.しかし,この代国もB.C.222年に王賁将軍率いる秦軍により滅ぼされた.
姫姓魏氏.B.C.403-B.C.225年.
B.C.453年に晋から魏・韓・趙として独立.戦国時代の幕開けを担った.B.C.370年,恵王が斉の孫臏[孫子の子孫]に大敗[馬陵の戦い].加えて,B.C.340年に,秦の商鞅が率いる軍に敗れ黄河以西の領土を喪失.安邑から大梁へと遷都.これにより,三家分晋後,覇を唱えていた魏の国力は大きく削がれ,秦と斉の存在感が高まる.
戦国四君と称される魏の信陵君[-B.C.244]は侵攻してきた秦軍を打ち破るも軍規違反で失脚.
秦による侵攻は続き魏は領土を次々と失う.そして,秦王政の治世のB.C.225年,王賁将軍が率いる秦軍は魏の首都・大梁を水攻めとし,魏の最後の君主・魏王假[姫魏假,在位B.C.227-B.C.225]を降伏させた.ここに魏は完全に秦に併合された.
姫姓韓氏.B.C.403-B.C.230年.
B.C.453年に晋から魏・韓・趙として独立.戦国時代の幕開けを担った.鄭を併呑するも戦国七雄で最弱という地位は変わらなかった.国の行く末を憂いた公子の韓非[Hán Fēi,B.C.280-B.C.233]で知られる.事実上,秦の属国となっていたがB.C.230年に内史騰が10万の秦軍を率いて首都・新鄭を攻め韓の最後の王である韓王安は捕らえられ韓は滅亡.なお,内史騰は韓の降将であった.
媯姓田氏.B.C.386-B.C.221年.
周の軍師であった呂尚[Lü Shang,媯姓,太公望,在位B.C.1021-B.C.1000]を祖とする姜斉[Jiāng Qí]をB.C.386年に宰相の媯田和が簒奪して建国.姜斉と区別し田斉と称される.
B.C.314年に内乱状態となった燕に侵攻し占領.B.C.286年には同じく内乱が勃発した宋を攻め滅ぼす.湣王は楚も支配下に納め,秦と斉で天下を二分.秦の昭襄王は西帝,斉の湣王は東帝を名乗るほどに至る.しかし,B.C.284年,斉から自立した燕の昭王は楽毅将軍に命じて燕・秦・韓・趙・魏の五国連合軍により斉は莒と即墨を残して領土を喪失.斉の湣王も殺害された.B.C.279年,燕の昭王が世を去り,後継の恵王が楽毅将軍を追放.湣王の子の法章を襄王としていた斉の残存勢力は田単将軍の下で結束し,燕軍を率いる騎劫将軍を打ち破り国土を回復.
韓・趙・魏・燕・楚が秦により滅亡すると,斉の最後の君主である田建は秦による侵攻に備えて西部に軍隊を集結.B.C.221年,秦王政は王賁将軍,李信将軍,蒙恬将軍に命じて斉へと侵攻.斉の首都である臨淄を陥落させた.田建は秦軍に降伏し斉は秦に併合.

posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.

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