カラカルパクスタン共和国[カラカルパク語:Qaraqalpaqstan Respublikası,ウズベク語:Qoraqalpogʻiston Respublikasi:ロシア語: Республика Каракалпакста́н]は中央アジアのウズベキスタン共和国内の共和国.アムダリヤ川の下流域,アラル海の南岸に当たる.かつては,ホラズム[ウズベク語:Xorazm]と呼ばれた地.但し,ホラズムの中心地はウズベキスタン共和国ホラズム州とトゥルクメニスタン共和国タシャウズ州.B.C.330年,アレクサンダー大王がハカーマニシュ王朝を破るとホラズム王フラタフェルネスはマッサゲタイ人[ギリシア語:Μασσαγέται Massagetai,ラテン語:Massagetae]と同盟しギリシア軍に抵抗.一方で,フラタフェルネスの息子であるファラスマネスはアレクサンダー大王と同盟.この同盟によってアレクサンダー大王はホラズム侵攻を断念しバビロンへと撤収.この時にホラズムを統治していた王朝はホラズム第一王朝とも呼ばれるが詳細は明らかではない.
カラカルパクスタンはB.C.2世紀にサカ人の大侵攻を受ける.続いて,B.C.1世紀にイラン系あるいはテュルク系の康居の支配を受けた.その後,イラン高原東部のバクトリアで建国されたクシャーナ王朝[1-3世紀]の支配下に置かれる.2世紀にはクシャーナ王朝の支配から,ホラズム第二王朝として独立した考えられている.
ホラズム第二王朝は305年にハーラズム・シャーを称するアフリーグが創始したアフリーグ王朝[Afrighids]によって取って代わられる.712年にクタイバ将軍率いるイスラーム軍の侵攻を受ける.以降,アフリーグ王朝はイスラーム王朝であるウマイヤ王朝・アッバース王朝の保護国として存続を許された.
995年,アフリーグ王朝は家臣によって打倒され,マァムーン王朝[Ma'munids]が成立.11世紀には南のホラーサーン[Khorasan]からガズナ王朝[Ghaznaviyān;955-1187]による支配を受けるようになる.1042年にはガズナ王朝に取って代わったセルジューク王朝[Seljuk,Büyük Selçuklu Devleti;1038-1194]によって統治.セルジューク王朝はテュルク系遊牧民であるオグズ[Oghuz]のを構成する22氏族の一つであるクヌク氏によって建てられた王朝.
なお,オグズの22氏族は,トゥルクマーン[Turkmānān]と呼ばれるようになっていき,6つのイスラーム王朝を産み出していくこととなる.
1077年,セルジューク王朝の軍人であるクトゥブッディーン・ムハンマドがハーラズム・シャー王朝[Khwārazmshāhiyān;1077-1231]を建国.この時点でホラズムの主要民族はイラン系アーリア人からテュルク系へと変わっていた.
1219年,チンギス・ハーンがホラズムへと侵攻.1231年,チンギス・ハーンの子のオゴデイ[Ögödei;1186-1241]が派遣したチョルマグン将軍[モンゴル語:Čormanγun,中国語:綽児馬罕]により,ハーラズム・シャー王朝最後のスルターンであるジャラールッディーン・メングベルディー[Menguberdī;1199-1231]はムーガーン平原の戦いで敗れ,山地へと逃れるもクルド人によって殺害.これにより,ハーラズム・シャー王朝は歴史から消えた.
その後,チンギス・ハーンの長男ジョチの末裔による遊牧政権ジョチ・ウルス[キプチャク・ハン国;Ulūs-i Jūchī]による支配,テュルク系のスーフィー王朝の支配を経て,1380年にはティムール[Taymūr, 1336-1405]による支配を受ける.ティムール王朝[ペルシア語:Tīmūriyān,ウズベク語:Temuriylar;1370-1507]が衰えると,ジョチ・ウルスの末裔であるテュルク系遊牧集団ウズベク[ウズベク語:O‘zbek,ロシア語:Узбек,英語:Uzbek]がシャイバーニー王朝[ウズベク語:Shayboniylar,ロシア語:Шейбаниды,英語:Shaybanid Dynasty]が樹立される.シャイバーニー王朝はそれに続く王朝とともにヒヴァ・ハン国[ウズベク語:Xiva Xonligi;1512-1920]と呼ばれロシア革命によって倒されるまで続いた.
ソビエト政権下でホラズムはウズベク・ソビエト社会主義共和国,トルクメン・ソビエト社会主義共和国,そして,カラカルパクスタン共和国の前身であるカラカルパク自治州へと三分割された.
posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.