岩手県奥州市の地名.
神明町・花園町・杉ノ堂地域は,かつては,跡呂井村であった.『安永風土記[1773]』には「安土呂井村」とある.この安土呂井村は,1875[明治8]年,瀬台野村・四丑村・茄子川村と合併し常盤村となっている.1889[明治22]年4月1日,中野村と常盤村の一部,秋成村の一部が合併し真城村が発足.1954[昭和29]年4月1日,姉体村・佐倉河村・真城村・江刺郡黒石村・羽田村と合併して水沢市に.水沢市は2006[平成18]年2月20日に江刺市・前沢町・胆沢町・衣川村と合併して奥州市となった.
阿弖流爲[アテルイ;-802/9/17]ゆかりの地と考えられている.大墓公阿弖流爲[おおつか-の-きみ-アテルイ]は,桓武天皇の命を受けた征東大将軍・紀古佐美率いる征東軍を巣伏村にて撃退[789年].多くの戦死者を出した紀古佐美は征東軍を解散して帰京.征東副使・入間広成と鎮守府副将軍の池田真枚・安倍猨嶋墨縄とともにその罪を問われた.
その後,大伴弟麻呂が征夷大将軍に任ぜられ,続いて,坂上田村麻呂が征夷大将軍となり,胆沢と志波に侵攻.延暦21[802]年,大墓公阿弖利爲と盤具公母礼が坂上田村麻呂に降伏.坂上田村麻呂の助命嘆願も虚しく,大墓公阿弖利爲と盤具公母礼は河内国にて処刑.
「跡呂井」が大墓公阿弖利爲の本拠地だったのか,大墓公阿弖利爲の名が「跡呂井」という地名に由来するものか,あるいは,その逆なのかは定かではない.
しかし,仮に,「跡呂井」が「阿弖利爲」の元になったとすると,「楡皮を・水に浸す・場所」を意味する「アッ・ウォロ・イ」に由来するとの説がある[山田秀三『東北・アイヌ語地名の研究』].
©OpenStreetMap,N.T.
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