広島県廿日市市桜尾本町にある城.周囲は埋め立てられているが,かつては三方を海に囲まれた海城.城主・桂元澄[1500-1569]の末裔である総理大臣・桂太郎が土地を買収し寄付.公園となって残されている.
厳島神社を望む位置にあり,承久の乱[1221]後に中原親能・大江広元兄弟の同族である藤原親実が厳島神社神主となり築城.但し,藤原家が鎌倉から入部したのは,鎌倉時代末期,厳島神主家・藤原親宣の頃と考えられている.藤原親直の代には足利尊氏に与し勢力を保持.小早川家との所領争いが生じると,大内氏の傘下に入り庇護を求めた.
やがて,藤原家は安芸武田家による侵攻を受け,これに対抗するため同族である毛利家一門の長屋家から教親を養子として迎え入れる.この時期に大内家と安芸武田家との争いが激化.厳島神主家中でも,神主一族の友田興藤と小方加賀守が家督を争う事態に.家督を相続したのは,武田光和[1503-1540]の後ろ盾を得た友田興藤.しかし,大内義興・義隆父子は桜尾城を攻撃.桜尾城の守りは堅く,大内義興は吉見頼興の仲介により友田興藤を引退させ,子の藤原兼藤を厳島神主に据えることで決着.その後,藤原兼藤は病没し,友田興藤の弟・藤原広就[-1541]が厳島神主となる.
天文10[1541]年に,尼子詮久が大内配下の吉田郡山城主・毛利元就を攻める吉田郡山城の戦いが勃発.機に乗じて友田興藤が村上水軍を率いて厳島で叛旗を翻す.黒川隆尚[宗像正氏]率いる大内水軍は直ちに反撃を行い村上水軍を撃破.友田興藤は桜尾城に籠城.大内軍は藤懸尾の戦いで内藤正朝・熊野藤右衛門尉・宮川大蔵太輔らが討死するなど打撃を被る.大内義隆は桜尾城を包囲.かつては士気が高く大内軍を和議に持ち込んだ友田興藤だったが,尼子軍を撃退した大内軍を前にして神領衆羽仁・野坂・熊野氏が桜尾城を退去.残った友田興藤は自刃.藤原広就は栗栖氏とともに五日市城主・宍戸弥七郎を頼って桜尾城から落ち延びる.その五日市城も大内軍に包囲されるに及び藤原広就も自刃.ここに厳島神主家は滅亡.
大内義隆は,かつて友田興藤と厳島神主家の家督を争った小方加賀守の娘婿となっていた杉隆真を厳島神社家を相続させる.この時,杉隆真は旧神主家の佐伯家の名跡を承継する形を取り佐伯景教と名乗る.佐伯家は神職としての権限を持つに留まり,桜尾城は大内軍の支配下に置かれた.
大内義隆が家臣の陶晴賢により自害させられた大寧寺の変[1551]に際しては陶晴賢の家臣・江良賢宣が城将として桜尾城にあったが,毛利元就によって攻略され,毛利元就の家臣・桂元澄が入っている.桂元澄の後は毛利元就の子の穂井田元清が城主に.
関ヶ原の戦いの後に廃城.
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