長島高城

東京都江戸川区東葛西にある城.この辺りは太日川[現在の江戸川]の河口に当たり,かつては長島湊と呼ばれる湊があった場所.平安時代から鎌倉時代には葛西御厨と国府の外港として機能した.また,葛西氏が東北に本拠地を移した後,応安5[1372]年には香取神宮の河関が設置されていたことが知られている.河関は香取神社の大禰宜で大宮司職も兼ねた大中臣長房が関白・二条兼良と室町幕府の力を背景として支配した.その後,戦国時代になると,千葉氏の軍事的圧力が増し,長島湊は千葉氏重臣の小金城主・高城氏が知行した[八潮市史 通史編1].

その長島湊を支配する長島氏が「長島高城」を構えていたと伝わる.この「高城」は高城氏が知行していたという意味の「高城」であり,その拠点が「長島屋敷」であり,いつしか「長島屋敷」が「長島高城」と呼ばれるようになったのかもしれない.日本城郭大系では長島屋敷としている.そう考えると,長島氏は高城氏の別称か,高城氏の家臣ということになろう.但し,小金城主・高城氏の読みは発祥の地にまで遡っても「たかぎ」であり「たかしろ」ではない.この読み方を重視すると,長島湊には高城氏が支配し,その配下に長島氏がいて長島高城を築城したか,葛西御厨を設けた葛西氏の時代,香取神社の大中臣氏支配の時代に長島氏が長島湊の統治を担っていたのかもしれない.

長島高城の場所は長島香取神社から清光寺に掛けてと考えられている.長島湊は太日川から旧長島川に掛けて広がっていたという.旧長島川には船着場だったとされる場所の伝承も残されている.ただ,これにも妙見島から対岸の下総国八幡荘猫真[猫実]にあったのではないかという異説もある.

清光寺の周辺は堂屋敷と呼ばれ,その周囲には表門・裏門・馬場という地名が残されていた.

地図上にある妙見島は旧太日川の中洲.長島も,その名の通り,かつては中洲であったのであろう.葛西の地には南に蜆島,西には小島という地名も残る.

千葉氏の支配の後,後北条氏の「小田原衆所領役帳」によると長島は太田新六郎康資[1531-1581]の知行地となった.

なお,長島高城というように高城と呼ばれる城館としては,宮崎県児湯郡木城町の高城,三重県松阪市大阿坂町の高城などがある.

ちなみに,長島高城の城域とされる長島香取神社は旧名を茂呂神社と言った.茂侶神社というのは奈良の三輪神社の御諸山に由緒のある千葉県流山市・松戸市・船橋市の茂侶神社が知られている.その茂侶神社と長島香取神社の旧名である茂呂神社との関係は不明.


©OpenStreetMap,N.T.

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