福岡県北九州市八幡西区大字熊手にある城.建武元[1334]年,肥後国守護・規矩高政が弟・糸田貞義とともに北条残党を糾合して挙兵し籠城した城として知られる.
規矩高政は北条高政ともいい,北条氏金沢流で鎮西探題であった金沢政顕[1269-1316]の子.
元弘3[1333]年,六波羅探題滅亡の報せが九州に届き,さらに,配流先の土佐国から尊良親王[-1337]が筑前国入りすると,少弐貞経[1272-1336]・大友貞宗[-1334]・島津貞久[1269-1363]によって鎮西探題が攻められる.ここに鎮西探題・北条英時は金沢種時ら北条一族とともに集団自害.
北条英時の養子となっていた北条[規矩]高政は落ち延びて弟とともに蜂起[規矩・糸田の乱].少弐・大友連合軍は帆柱城を半年以上にわたって攻め落城させた.落城時に北条[規矩]高政は他の北条一門とともに殺害されたとされている.
その後,帆柱城は花尾城とともに麻生氏の支配するところとなる.文明10[1478]年,大内氏に仕えていた父・麻生家春の死後,麻生家信[-1496]は異母弟・弘家と家督の座を争う.これに対し,大内政弘[1446-1495]が介入し麻生弘家への家督承継が認められる.この時,以降,大内氏の支配が強まり,大内義隆[1507-1551]は麻生氏を花尾城主の座から降ろし相良武任[1498-1551]を花尾城主とともに帆柱城主に据えた.しかし,天文20[1551]年に陶隆房が大寧寺の変を起こし相良武任が殺害されると,麻生家信の子・麻生鎮里が陶方として城主として復帰.天文23[1554]年には毛利元就の攻撃を受けて毛利方となった.
永禄10[1567]年に,一族の麻生隆実が麻生鎮里から城主の座を奪取.
永禄12[1569]年の毛利元就による大友宗麟方の立花山城攻略時には帆柱城に本陣が置かれている.
帆柱城と花尾城は近接した地にあるが,帆柱城は麻生氏歴代の持ち城であり,花尾城は大内氏の城で麻生氏が預かっていたという関係にあったのだろう.
大友宗麟は毛利元就軍を九州から撤収させるため,豊後国に亡命していた大内輝弘[1520-1569]を擁立し山口へと上陸させる.これにより,背後を突かれることを危惧した毛利元就軍は九州から撤退.大内輝弘は討ち取られるも,大友宗麟は九州北部から毛利勢を駆逐することに成功.
毛利氏が撤退したことで麻生隆実は帆柱・花尾の両城を大友宗麟方に引き渡し,山鹿城へと退いた.
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