滋賀県東近江市稲垂町にある城.布引山系の布施山に立地し,甲賀や伊勢への交通の要衝であったと考えられる.
城主は近江国守護・佐々木六角氏の家臣である布施氏.布施氏には本家筋である布施三河守家と分家筋の布施淡路守家があるが,布施山城を本拠地としたのは本家筋の布施三河守家.なお,布施淡路守家は大森城を本拠地とした.
布施山城は六角義弼[1545-1612]が実権掌握のために家臣で羽田を領した重臣・後藤賢豊[-1563]を種村道成・建部日向守に命じて観音寺城内にて暗殺[観音寺騒動].この観音寺騒動の背景には,事実上,六角家の家督を承継していた六角義弼の陣代箕作家と本来の六角本家と国人衆との危ういパワーバランスがあったとされる.
ともあれ,後藤賢豊暗殺に反発した国人衆は北近江の浅井氏に与するものが続出.布施公雄も浅井長政に与して布施山城にて六角氏に対して叛旗を翻した.浅井軍も愛知川まで進軍.永田氏・三上氏・池田氏・進藤氏・平井氏は六角義弼を観音寺城から追放され蒲生定秀・賢秀親子の元へと落ち延びた.観音寺騒動は,蒲生定秀・賢秀親子と三雲定持による調停によって六角義弼は弟・六角義定に家督を譲ることで決着し観音寺城へと復帰.
布施山城は永禄11[1568]年,織田信長軍により攻撃され落城したという.
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