金窪城

埼玉県児玉郡上里町大字金久保にある城.治承年間[1177-81]に加治家治が築城したとの伝承を持つ.

加治氏は武蔵七党丹党で武蔵国高麗郡加治を発祥の地とする一族.

金窪城は,元弘年間[1331-34]には新田義貞が支配下に納め,新田四天王の一人・畑時能[1299-1341]を城将として配置している.ちなみに,新田四天王というのは,栗生顕友,篠塚重広,由良具滋と畑時能.

寛正年間[1460-66]には斎藤実盛の子孫で関東管領・山ノ内上杉氏の家臣となっていた斎藤盛光が城主として置かれた.金窪城近くの金窪神社は,斎藤盛光が大永5[1525]年に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したもの.斎藤盛光以降,斎藤氏が金窪城の城主であったが,斎藤氏は天正10[1582]6月に滝川一益と北条氏邦の神流川の合戦で討死.金窪城は焼失.これによって,滝川一益方に与していた斎藤氏は没落.

金窪城は北条氏によって鉢形城支城および上野国と武蔵国との境目の城として取り立てられた.しかし,天正18[1590]年,豊臣秀吉による小田原征伐に際して,前田・上杉軍の攻撃によって鉢形城と共に落城.

徳川家康が関東に入ると,金窪城は甲斐武田氏の一族である武田[河窪]信俊[1564-1639]の所領となり陣屋が置かれる.河窪信俊の子・河窪信雄の子である武田信貞[1631-1711]が元禄元[1698]年に丹波国へ転封となり廃城となる.


©OpenStreetMap,N.T.

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