広島県福山市神辺町にある城.広島県東部の神辺平野を望む黄葉山に立地.嘉吉3[1443]年に備後国守護代・山名氏による築城と伝わる.備後神辺城主・山名理興[-1557]は尼子晴久[1514-1561]の後ろ盾を得て,天文15[1546]年に沼田小早川領椋梨へと侵攻.対する毛利元就[1497-1571]は,息子の隆景を竹原小早川家に入れる.そして,大内義隆[1507-1551]と毛利元就は小早川水軍を合わせて神辺城への反撃に出る.神辺城は大内・毛利軍に包囲されるも,山名家家老の杉原盛重[1533-1582]の働きにより持ちこたえた.攻防戦は長引き天文19[1550]年に山名理興は遂に尼子氏を頼って落ち延びる[神辺合戦].
大内義隆は青景越後守を城将として神辺城に置いた.
大内義隆は天文20[1551]年に陶隆房の謀反によって自害[大寧寺の変].
陶隆房を滅ぼした毛利元就は備後神辺城に臣従した山名理興を復帰させる.山名理興の死後は嗣子がいなかったため,杉原盛重を城主とした.一時,山名家家臣の藤井皓玄が叛旗を翻すも制圧し,杉原盛重のあとは杉原景盛[-1582]が城主の座を引き継いだ.しかし,杉原景盛は父の死後に家督を相続した兄・元盛[-1582]を殺害し毛利氏によって討ち取られる.これによって,備後神辺城は毛利元就の子・毛利元康[1560-1601]が新たに城主となった.慶長3[1598]年,毛利元康は海に面した地に王子山城を築城し移る.
関ヶ原の戦いで毛利氏の所領が削減されると,芸備には福島正則[1561-1624]が封ぜられ,備後神辺城には筆頭家老・福島丹波守正澄が入った.
元和5[1619]年に福島正則が改易されると,水野勝成[1564-1651]が封ぜられた.この水野勝成の代に備後神辺城は廃城となった.
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