宮崎県宮崎市清武町加納甲にある城.伊東四十八城の一つ.
文和年間[1352-1356]に,伊東氏一族の清武氏によって清瀧城として築城したと伝わる.天授5[1379]年に伊東[清武]祐行が改修し清武城とする.
伊東祐堯[1409-1485]は,文明2[1480]年に伊作島津久逸[1441-1500]の求めに応じ,飫肥城主・新納忠続[-1489]を攻めるために清武城に入っている.その後,伊東氏の支配下で長倉伴九郎,上別府宮内少輔が城将として置かれる.
伊東義祐[1512-1585]が島津義弘[1535-1619]との木崎原の戦いで大敗すると伊東崩れが始まり福永氏・土持氏・野村氏・米良氏が離反.天正6[1578]年,伊東義祐は大友宗麟を頼って豊後に亡命[豊後落ち]すると,島津氏配下の伊集院久宣[-1586]が城将として入る.島津氏による支配は豊臣秀吉による九州征伐まで続く.豊臣秀吉が島津義久[1535-1611]を下すと,伊東義祐の子で伊東氏中興の祖となる伊東祐兵[1559-1600]が日向国に復帰.清武城には伊東氏庶流の稲津重政[1574-1602]が城将として置かれる.
稲津重政は,関ヶ原の戦いの中で,西軍の高橋元種[1571-1614]が支配する宮崎城を攻める.ところが,高橋元種が東軍に寝返ったために攻撃の責任を問われる.伊東祐兵の子・伊東祐慶は稲津重政の責任を問うたため,稲津重政は清武城に籠城[1602].伊東祐慶は清武城に攻め寄せ稲津重政を討ち取った[稲津の乱].
その後,河崎駿河守が城主として派遣されたが,一国一城令によって廃城.
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