宮崎県宮崎市池内町にある城.南朝方の図師六郎入道隋円・慈円父子によって1335[建武2]年あるいは1336[延元元]年に築城されたと考えられている.
その後,北朝方の土持宣栄によって攻め落とされ,土持氏の城となる.土持氏に次いで県伊東氏が城主となっていた宮崎城を文安4[1446]年に伊東祐堯[1409-1485]が攻め取り,落合彦左衛門を城将として置いた.
天文5[1536]年には伊東義祐[1512-1585]が居城としている.
伊東氏の豊後落ちの後,天正8[1580]年には島津家老中・上井覚兼が城将として置かれた.
豊臣秀吉による九州征伐で島津氏が豊臣秀吉の軍門に下ると,高橋元種[1571-1614]の所領となり権藤種盛が城代として遣わされている.関ヶ原の戦いで高橋元種は西軍であったため,宮崎城の権藤種盛は東軍の伊東氏家老・稲津掃部助に攻められ討死.宮崎城は伊東氏の持ち城に.その後,高橋元種は途中で東軍に寝返ったことで本領安堵になり,宮崎城は伊東家から高橋家へと返還.一国一城令によって廃城.
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