豊福城

熊本県宇城市松橋町豊福にある城.

名和長年[-1336]の子・義高[1302-1338]が肥後国八代郡を領した建武元[1334]年に内河彦三郎義真が代官として入部した際に築城したものと考えられている.

名和長年・義高父子は足利尊氏との戦いで討ち死.名和家は甥・顕興が相続して八代庄地頭として下向し,その子孫は肥後名和氏となっていった.

名和顕忠[1542-]は兄・義興[1444-1406]が家中内紛が続く中で,奥野太郎左衛門尉によって暗殺.父・名和教長に続いての暗殺であり,本拠である古麓城に留まることが出来なくなった名和顕忠は球磨郡の相良長続[1411-1468]の許へと家老・内河式部少輔とともに亡命.そして,相良長続の支援下で古麓城に復帰.ところが,相良長続の跡を継いだ相良為続[1447-1500]が薩摩国牛屎院に出兵した際に旧名和領で割譲していた高田郷を攻撃[1475].恩を仇で返された形となった相良為続は激怒し文明8[1476]年から文明16[1484]年に掛けて古麓城を繰り返し攻撃し遂には落城させる.

再び居城を逐われた名和顕忠は菊池重朝[1449-1493]の許へと身を寄せた.明応2[1493]年,菊池重朝の後継・菊池能運と宇土為光が対立.明応8[1499]年に宇土為光を支援する相良為続が豊福の戦いで敗北.名和顕忠は豊福城とともに古麓城を再度奪還.

ところが,文亀元[1501]年に宇土為光が隈部忠直に擁立されて,菊池能運を隈府城から追放.名和顕忠は宇土為光に与する.この事態に,相良氏の相良長毎[1469-1518]は,八代・豊福の奪還を条件として,宿敵である菊池能運に支援の手を差し伸べる.文亀2[1502]年,相良長毎は宇土為光を破る.続いて,豊福城を攻略.永正元[1504]年,菊池能運の仲介により名和顕忠は相良長毎に豊福城を明け渡し木原城へと退去.

豊福城が引き渡された直後に,菊池能運が急死.菊池能運の後継は菊池政隆[1491-1509]であったが,城氏・赤星氏・隈部氏ら国人衆は阿蘇惟長[1480-1537]を擁立.菊池政隆は阿蘇惟長との戦いに敗れて自刃.しかし,菊池家の家督を確保した阿蘇惟長も国人衆との対立により隈府城から薩摩へと亡命[1511].次いで,菊池家一門の詫摩武包が隈部親氏・長野運貞・内古閑重載によって擁立された.ところが,大友義鑑[1502-1550]は国人衆と組んで詫摩武包を追放し,弟で菊池家の血を受け継ぐ大友重治[1505-1554]を菊池家の当主とさせた[1520].

こうして大友氏の影響力が菊池家中で増してくる中,永正8[1511]年に相良長毎は名和顕忠と干戈を交える.そして,永正13[1516]年には豊福城を奪取.永留刑部大輔を城将として据えた.豊福城を巡る戦いはこれでは終わらない.

相良長毎が亡くなり相良長祗[1501-1525]が跡を継ぐ[1518]と相良長定[-1531]との間に家督相続を巡る争いが勃発.相良長祗は敗れて自刃.しかし,家臣団は相良長定に従わず亡命を余儀なくされる.代わって,相良長祗の庶兄・相良義滋[1489-1546]が家臣団から支持されて家督を承継[1526].

相良家中の内紛が落ち着かない中で,名和顕忠の子・名和武顕[-1546]は大永7[1527]年に豊福城を攻めて永留刑部大輔を逃亡させ奪還.家老・皆吉伊豆守武真を城将に据える.

天文3[1534]年,大友義鑑の弟で菊池家を簒奪していた菊池義宗[大友義国]が兄・大友義鑑に叛旗を翻す.その擾乱に乗じて,相良長唯[義滋]は豊福城の攻略を開始,翌年に豊福城を奪還する[1535].

天文9[1539]年に大友・菊池間の争いが激化し,阿蘇大宮司家でも亡命していた阿蘇惟長の子・惟前と阿蘇惟豊[1439-1559]との抗争が起こると,名和武顕は阿蘇惟豊に与して豊福城を再び手中にする[1544].

名和武顕の跡は行興が継ぎ,永禄5[1562]年にはその子・行憲が名和家の家督を相続.わずか7歳での家督相続であったため,筆頭家老・内河氏と豊福城代・名和行直が名代の地位を争う事態に.名和行憲が永禄7[1564]年に亡くなると,豊福城代・名和行直がが挙兵し内河氏を追放,名和家の家督を承継することに成功.

その子・名和顕孝[1561-1608]は豊臣秀吉による九州征伐の際の後,筑前国に代わりの領地を与えられ小早川隆景の配下となった.これにより,豊福城は廃城となった.


©OpenStreetMap,N.T.

posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.

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