愛媛県松山市港山町にある城.建武年間[1334-38]に,風早郡河野村から湯築城に移った河野通盛[-1364]が湯築城の海上防衛のために築城したと考えられている.但し,文治2[1186]年に河野通信[1156-1222]が築城したとも.いづれにしても,港山城は河野水軍の拠点の一つであったことは間違いない.
応仁元[1467]年には,河野予州家の河野通春[1421-1482]が城主として入っている. 予州家は河野通之を祖とする家柄.河野惣領家の河野通義[1369-1394]が死去した時,弟の河野通之が惣領家の家督を承継.河野通義の死後に生まれた河野通久が成人すると河野通之は惣領家の家督を譲った.これでは収まらず,河野通之の死後,その子・通元が家督承継に意欲を示す.惣領家が通久の子・教通[-1500]の代となり,予州家で通元の子・通春[1421-1482]の代には家臣団が分裂し内紛が激化.
周防国・大内政弘[1446-1495]に支援された予州家・河野通春は港山城を拠点として惣領家・河野教通を攻撃.ところが,寛正6[1465]年,惣領家の軍勢が港山城に攻め寄せ,予州家の一翼を担っていた重見飛騨守が討死.応仁元[1467]年に応仁の乱が勃発すると,河野通春は西軍として上京.その隙を突いて,惣領家・河野教通は東軍に与し伊予守護職を得る[1473].応仁の乱後,伊予国に帰還した河野通春は伊予国守護職に再任[1477]されるも,惣領家・河野教通との戦いに敗北[1478].徐々に惣領家の優位が明確になっていく中,河野通春は文明14[1482]年に港山城にて病没.子の河野通篤が予州家の家督を承継するも,港山城は惣領家に攻められ落城.
こうして,港山城は惣領家の持ち城となり,河野水軍を率いる湊山衆忽那氏が城将に任ぜられた.港山城は大友水軍や毛利水軍による伊予国侵攻に対する防衛拠点となった.
天正13[1585]年,豊臣秀吉による四国征伐で小早川隆景が率いる軍勢によって攻撃され落城.
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