愛媛県西条市中野にある城.河野通堯[-1379]によって築城されたと伝わる.
河野通堯は四国管領・細川頼之[1329-1392]と伊予国の覇権を巡って激闘を演じた.天授5/康暦元[1379]年,康暦の政変で室町幕府管領・細川頼之が失脚し四国に下向.新たに室町幕府管領となった斯波義将[1350-1410]から,河野通堯は伊予国守護に任ぜられ細川頼之討伐の幕命を受ける.しかし,周桑郡における戦いで細川頼之に敗れ河野通堯は討死.子の河野通義[1369-1394]は室町幕府第3代将軍・足利義満によって伊予国守護職を安堵される.細川頼之も復権を果たし,河野通義とは和睦となる.この一連の戦いの中で高峠城が果たした役割は定かではない.
河野通宣[1522-1581]の頃には,予州河野通春[1421-1482]の孫の通存の子・石川通昌を祖とする石川通清が高峠城の城主となっている.石川家は河野家一門である.
石川通清の父・道清は阿波国の三好長慶[1522-1564]の娘を妻としていた.このため,三好長慶による元亀3[1572]年の伊予国侵攻の際には先導役を務めている.
三好長慶が伊予国から撤退すると,河野通宣に攻められ再び河野通宣の麾下となる.
河野通宣が世を去ると,養子の河野通直[1564-1587]が河野家の家督を相続.
天正10[1582]年には,土佐国の長宗我部元親[1539-1599]に攻められ降伏.長宗我部元親は阿波国白地城を拠点として伊予国人の金子元宅・妻鳥友春を調略.石川通清は天正12[1584]年に長宗我部方の国人衆として世を去った.
そして,天正13[1585]年に豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景が伊予国新居郡に侵攻.長宗我部方となっていた金子元宅[1551-1585]が守る金子城を攻撃.金子元宅は石川通清の義弟に当たる.金子元宅は石川通清の子で守護代・石川勝重の高峠城に入る.高峠城主・石川勝重と金子元宅は軍勢を整えて高尾城に進撃.金子元春が守将となっていた金子城は落城.続いて,小早川軍は高尾城に殺到.長曾我部軍を合わせても寡勢であった石川勝重・金子元宅らは殲滅された.
しかし,石川勝重の弟・虎竹丸は土佐国へと逃がされた.
ここに,高峠城は廃城となった.
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