福井県小浜市伏原にある城.大永2[1522]年,若狭国守護・武田元光[1494-1551]によって築城.
武田元光は細川高国[1484-1531]と細川澄元[1489-1520]の細川京兆家家督を巡る両細川の乱[1509-1523]において細川高国派として活躍.後瀬山城は,武田元光の後,武田信豊[1514-1580],武田義統[1526-1567]と受け継がれた.
細川澄元の子・細川晴元は細川高国を討ち取る[大物崩れ;1531]と,細川高国が擁立していた足利義晴および武田元光と和睦.武田元光は後瀬山城に帰り家督を子の信豊に譲った.
武田信豊は粟屋元隆に擁立された武田信孝が叛旗を翻すもこれを制圧.しかし,天文11[1542]年に細川晴元の要請で三好長慶[1522-1564]を河内国に攻めるも敗北.細川晴元を若狭国で庇護し,三好長慶の家臣の松永長頼[-1565]を丹波国に逸見昌経を派兵して攻めるも敗北.
こうした背景もあってか,武田信豊は子の武田義統と対立.武田義統は父・武田信豊を近江国へと逐った.その武田義統も内紛の火が燻るなか永禄10[1567]年に病死.
若狭国混乱の事態に,隣国の越前国の朝倉義景[1533-1573]が若狭国へ侵攻.武田義統の子・武田元明[1562-1582]は後瀬山城から一乗谷朝倉館へと連れ去った.
以降,逸見昌経・粟屋勝久[国吉城主]・熊谷直之[大倉見城主;-1595]ら武田四老は朝倉義景には従わず織田信長と誼を通じるようになる.なお,残る武田四老の武藤友益[石山城主]は朝倉義景に従っている.
朝倉氏が織田氏に滅ぼされると,後瀬山城には丹羽長秀[1535-1585]が入った.その後,京極高次[1563-1609]が入り小浜城の築城を開始.その後,酒井忠勝[1585-1662]が若狭国に入ると後瀬山城を廃し小浜城へと移った.
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