岩手県紫波郡紫波町片寄中平の城.吉兵衛館,中野館ともいう.柳田の名称は現代の所有者に因む.
天正16[1588]年に,南部晴政[1517-1582]は南部一族の中野康実を斯波御所・斯波詮真の娘婿とさせる.九戸弥五郎と名乗っていた中野康実は高田村を知行地としたので高田吉兵衛康実と名乗りを変えた.これが吉兵衛館と呼ばれる所以.
斯波詮真から斯波詮直[1548-1597]へと代替わりすると高田康実は南部信直[1546-1599]のもとへと出奔[1586].斯波詮直はこれを奇貨として,雫石久詮と猪去義方に命じて南部領へと侵攻.ところが,逆に南部軍によって駆逐され,三御所のうちの雫石斯波氏の雫石御所,猪去斯波氏の猪去御所が滅ぼされる事態に.
斯波詮直は南部信直に岩手郡見前・津志田・中野・飯岡を割譲することで両家は和睦.高田吉兵衛康実は南部信直により斯波詮直家中の切り崩しを命じられて,知行地として中野を得て中野修理亮直康と名乗る.
中野直康は,天正16[1588]年に,岩清水義教を調略.これに対し,斯波詮直は岩清水義教の兄・岩清水義長[-1588]に命じて岩清水義教の岩清水城を攻めさせる.ここに,南部信直自身が軍勢を率いて出陣.斯波氏家臣団の多くは南部信直の軍門に降った.
家老・細川長門守,岩清水義長,稲藤大炊助は斯波詮直の高水寺城に参じて抗戦.岩清水義長・工藤茂道・永井延明は斯波詮直を大崎氏のもとへと逃した後も南部軍と激闘を演じ討死.
斯波氏の切り崩しに貢献のあった中野直康は高水寺城城代および片寄城主となった.なお,中野直康は片寄康実と名乗りを変えている.
この片寄城というのが柳田館である.片寄城は慶長17[1613]年に片寄康実の子・正康の代に郡山城へと移り廃城となった.
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