和歌山県西牟婁郡白浜町安宅にある城館.安宅は安宅木ともいうが,元々は多知と呼ばれていた.小笠原頼春は阿波から紀州の多知に入り地名を安宅とするとともに自らも安宅と称した.安宅備後守頼藤の時代には阿波国竹原庄内本郷地頭職にも補されており,阿波国と紀伊国に跨って勢力を誇るに至る.
文安5[1448]年,紀伊守護・畠山持国[1398-1455]は養子としていた弟・持富[-1452]に替えて実子の義就を後継とする.これに家臣団が猛反発.異議を唱えなかった畠山持富が死去[1452]すると,家臣団の一部が畠山持富の子である政久[-1459]・政長[1442-1493]兄弟を擁立.紀伊国内の国人衆も真っ二つに別れて抗争を繰り広げることとなる.
寛正4[1463]年,安宅直俊は目良氏・神保氏・小山氏とともに畠山政長方として畠山義就方の龍松山城主・山本氏を攻めている.安宅直俊の子・実俊の代に山本氏を下し,安宅氏の勢力はさらに拡大.
この安宅河内守実俊によって,享禄年間[1528-1532]に築城されたと伝わる.
ところが,安宅実俊が大永6[1526]年に亡くなると,嫡男の安定が幼少であったために家督は弟・定俊が承継.安宅安定が成長すると,叔父・定俊に戦いを挑む安宅一乱が勃発.安宅安定が勝利するも安宅氏の勢力は大きく削がれ,三好長慶[1522-1564]の介入によって弟・冬康[1528-1564]が安宅家の家督を承継.
安宅冬康は兄の三好長慶をよく補佐したが,永禄7[1564]年5月9日に長慶の居城・飯盛山城に呼び出されて殺害された.松永久秀の策謀であったとも,家臣団の期待が安宅冬康が集まったためだとも言われる.
安宅冬康の跡は子の安宅信康[1549-1578]が承継.安宅信康は元亀3[1572]年に織田信長に降伏.本願寺包囲戦では安宅水軍を率いて毛利水軍と木津川口の戦い[1577]を戦っている.安宅信康の死後は弟の清康[-1581]が家督を承継.安宅清康は毛利輝元[1553-1625]に内通.天正9[1581]年,織田信長[1534-1582]の命により羽柴秀吉・池田元助によって攻められ紀州へと追放された.
なお,安宅本城の安宅一族は,天正13[1585]年,羽柴秀吉の紀州攻めにより落城.
出典:国土地理院地図[電子国土Web]に一部追記.
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posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.