長野県佐久市成瀬にある城館.文明10[1478]年に大井行俊[1247-1505]が岩村田館の防衛のために築城したとされる.大井行俊は長土呂館を拠点としていた.応仁元[1467]年に応仁の乱が勃発すると,府中小笠原家の小笠原長朝[1443-1501]に従い室町幕府管領細川勝元方として上京し山名宗全率いる西軍と戦っている.応仁の乱の終結とともに信濃国に戻ると,岩尾城を築城し長土呂館から移った.以降,大井行俊を祖とする一族が守った.岩尾城に拠った大井行俊の子孫は岩尾氏を称することになる.
大井行俊の後は行満[1453-1525],行真[1484-1539],行頼[1509-1572],行吉[1542-1584]と続いた.
岩尾城は平山城であり標高659メートルの最高地点に本郭があり,そこから東に二郭,三郭と設けられ,下部に三ケ月堀が築かれている.
岩尾城主の岩尾大井氏は行頼・行吉の代に甲斐武田氏に従うことになる.天正10[1582]年,織田信長によって武田勝頼が天目山にて討ち死に.この事態に際して,岩尾大井行吉は岩尾城を退去し織田軍の攻撃を凌いだとされる.同年,織田信長が本能寺の変で明智光秀によって斃され,織田軍が信濃国から撤退.代わって,北条氏政が侵攻.岩尾大井行吉は大道寺政繁を通じて北条氏政の軍門に降り,岩尾城に復帰.
しかし,徳川家康も信濃に侵攻.天正11[1583]年,岩尾城は徳川家康配下の柴田康忠,依田信蕃・信行兄弟に攻めらる.岩尾大井行吉は良く耐えただけではなく,銃撃を浴びせ依田信蕃・信行兄弟を死へと追いやった.もっとも,劣勢は覆いがたく,柴田康忠による説得を受け入れ,城を明け渡すに至った.
岩尾城を明け渡した岩尾大井行吉は上野国松枝城主大道寺政繁のもとへ赴き保渡田村にて余生を過ごした.
出典:国土地理院地図[電子国土Web]に一部追記.
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posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.