大阪府茨木市安威にある砦.東西に伸びる花園山丘陵の東端に,3つの曲輪を配し,東西に50m,南北に100mの規模を持つ.
応仁の乱の後から信長の上洛までの軍記物である『足利季世記』の大永6[1526]年の桂川合戦を記した条に,芥川城・茨木城・三宅城とともに安威城の名がある.
安威氏の守る城であったと考えられ,安威弥四郎の子・五左衛門了佐が豊臣秀吉の命によって,天正14[1586]年に茨木城の城将となった際に安威城は廃城になったとされる.もっとも,安威五左衛門了佐の子・勝宗は安威城主であったともされる.
出典:国土地理院地図[電子国土Web]に一部追記.
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大阪府茨木市安威を発祥の地とする安威氏は『新撰姓氏録』の摂津神別項に「中臣藍連,天児屋根命十三世御身宿禰の後」とあるように中臣氏の支流.
鎌倉時代より活躍し,嘉暦3[1328]年8月12日付の「関東下知状[鎌遺30337]」に奉行人として安威新左衛門尉資脩の名がある.また,『建武年間記』には陸奥将軍府二番引付衆に安威新左衛門入道・安威弥太郎の名が,元弘4[1334]年の文書[鎌遺32856]には阿井新左衛門尉が奉行人として記載されている.
足利義尚軍二番衆にも安威新左衛門入道・安威左京亮の名がある[『長享元年江州御動座在陣到着』].
安威弥四郎の子・五左衛門了佐が豊臣秀吉の命によって,摂津国茨木城の中川清秀の配下となり,天正14[1586]年に茨木城へと移った.
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