旗本榊原越中守照清の別邸があったことに因む地名.
かつて,越中島の地は隅田川河口の海に浮かぶ島状の地[洲]だったと伝わる.その地を下賜された榊原越中守照清が埋め立てを行い屋敷地として整えた.p>榊原越中守照清は徳川四天王の一人である榊原康政[1548-1606]の兄・清政[1546-1607]の子孫.清政は徳川家康の長男・松平信康の傅役出会った人物.松平信康が自刃すると隠居.
徳川家康の計らいにより,久能城の城代に任ぜられ,以降,代々,交代寄合表御礼衆榊原家として久能山東照宮の管理を担った.
こうして人の住む地となった越中島であったが,風が強くなると浸水を繰り返したため放棄されるに至る.
榊原家屋敷だった場所は上地され,北部は深川大島町代地となり石置き場として利用された[寛文年間].
さらに,石方御用の因幡町の角谷彦三郎によって石置場が新たに築かれ,その場所は寛延年間[1748-1751]には人の居住が許され,彦三郎拝借地と呼ばれた.旧来の地は古石場と呼ばれ,彦三郎拝借地は新石場と称された.
その後,元禄年間には,永代島に代わって,隅田川の川ざらいの土砂が捨てられるようになり,波が被らない範囲が広がると,古石場は旗本・御家人43人に下賜され拝領屋敷地として越中島町となる[正徳元[1712]年].
やがて,越中島町住人の平助と僧侶の曽融が江戸幕府の許可を得て,東南部にできた寄り洲を開墾.越中島新田と称された開墾地の周囲の寄り洲も開墾され,藤右衛門請地・平助請地と呼ばれるようになる.なお,大島川に架かる橋は平助によって架橋されたため平助橋と呼ばれた.現在の越中島橋である.
明治時代に入ると,越中島新田は深川越中島に編入された.
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