2002/11/07 (木) 晴れ
企業風土といったことが話題に上った。
とある中堅のメーカと大きなそれなりのメーカを比較してのこと。中堅のメーカは非常に元気がいいらしい。自分自身で行ったわけではなく、聞いた話だからなんとも言えないというのは事実だが、とにかく元気がいいらしい。その人の言うには60年代の日本の製造業を見ているようだったという。70年代でもなく、ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代でもなく、60年代なのだと。
その会社の直面している状況、つまり市場は大きなほうが直面しているものと同じであり、特別にニッチなところに特化しているわけでもない。加えて、給料も決して多いともいえないし、成果主義できっちり報いるというのでもないらしい。どうして違いが出るのか。行った本人たちも、これには首を傾げたという。
ただ、社長からアルバイトの人まで非常に風通しがいいということは確かとのこと。そういう風通しの良さからか、まずやってみるという、そういうことが根付いている。おそらくはその当たりが秘訣なのかもしれない。
話は変わる。
企業の風土といったときに、やはり人でいうと血ということが良い意味でも悪い意味でも個人に表れてくるということがある。もっとも、全てがそうではないことは言及しておかなければならないだろう。あるいは、個人にとっては祖父母や叔父叔母の影響というのは限られているのかもしれない。そうは思ってみても、やはり少しくらいは何がしかの影響を及ぼしあっているのではないか。
そして、そういうことは会社とか組織とかでも全く同じようなことが言えるのではないか。例えば、新入社員は会社の色に染まってはいないだろう。それが、会社でいろいろなことを学んでいく中で会社の空気を吸い込んでいく。会社の空気というのがどこから来ているのかということを考えると、会社にずっといる人達、先輩達が積み重ねてきたものだろう。その先輩たちもまたその先輩からというふうに学んできたに違いない。会社という組織が途切れることなく綿々と続いている場合にはやはりそこに人でいうところの血のようなものが流れているのではないだろうか。そう考えると、綿々と流れている一つ会社の歴史の中で分かれていった会社などには同じ血が流れているのではないのか。
こういうふうに考えるのはあるいは間違っているのかもしれない。
日産自動車のことを考える。日産自動車はかつては日産産業という名の下で日立製作所と同じグループだったという歴史がある。そうすると、日産自動車と日立製作所には何がしかの、従兄弟同士のような風土の似通ったところがあるいは見られるのかもしれない。
それから、日産自動車を創設した鮎川義介はダット自動車と資本的に関係して、後に一部をもって日産自動車の前身を作った。このダットは快進社自働車工場が前身で田健治郎・青山禄郎・竹内明太郎の頭文字をとったダットサンで有名だけれども、石川島自動車と合併していすゞ自動車の源流となります。ここに、石川島というのが出てくる。石川島造船所は旧幕府系で渋沢栄一によって大きくなった。渋沢栄一の三男が石川島自動車の初代社長になっている。なんで、石川島をここで取り上げるのか。
日産自動車が後に合併するプリンス自動車は石川島造船所の流れを汲む立川飛行機、これは現在の立飛ですが、その流れにある。つまり、ダット自動車製造(1926)の一部が石川島造船所の血を引く石川島自動車製造(1932)と後に日産自動車となる自動車製造(1933)に分かれ、石川島自動車を産みだした石川島造船所の一部の石川島飛行機製作所をもとにする立川飛行機から分かれたプリンス自動車の流れと合流する。
こうみてくると、想像の域を出ないのだけれども、日産自動車といすゞ自動車と、そして石川島播磨重工業との間になんらかの共通の空気がありはしないのかと考えたくなるのです。これは、もちろん、日本産業という名のもとに一緒だった春光懇話会に連なるような日立製作所はいうまもないのかもしれないのですが、そういうグループを作っていなくても、形にならない風土のようなものがいろいろとあるように思えるのです。
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[旧日産自動車村山工場跡]
ここは、1966年に日産自動車と合併したプリンス自動車の本社工場でもあった。この近くにはプリンスの森と呼ばれる一角を始めとして、この地がプリンスの地であったことを示す場所が幾つか残る。
しかし、この工場の建物も取り壊され、この地が日産自動車の企業城下町であったことも忘れ去られようとしている。
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2002/11/06 (水) 晴れ
最近、何と言うのか。
人の目が血走っているような気がする。ほんの、そうほんの数年前までは電車に乗るときはホームで列を作っていた。
「3列でお願いします」
こういうアナウンスが流れたりするけど、2列だったり、2.5列だったり。
2.5列っていうのは、途中まで2列で半分くらいから3列になるようなバージョン。それでも、列が存在していたように思う。
もちろん、今でも列はある。あぁ、これは東京圏の話。大阪は昔の昔は列なんか作らなかったといわれていたけど、数年前に大阪に行ったときには東京以上にきちんとしていた。で、話をもとに戻す。
そう、今でも列はあるのだけれど、電車が到着してからの割り込みがひどいように思う。若者のマナーがどうとか、道徳性がどうとか言われていたけれども、どうも中高年が多い。かえって、若者層のほうがきちんとしているんじゃないかとも。割り込みもそうだけど、人が一杯降りるのに、必死の形相でドアの入り口で頑張っているおじさん、おばさんもみかける。なんか、こう、鮭が千歳川を登るって感じかな。手すりに掴まって、手が千切れてしまうんじゃないかと、こっちが心配になってきてしまう。
経済状況が状況なだけに余裕が無くなっているのかも。
リストラとか大変だからね。もう至るところで弱肉強食状態だ。
そういうご時世だから、宮城県警がテープ起こしの内職商法の会社(台東区柳橋)の社長と社員11人を詐欺と特定商取引法違反の疑いで逮捕したというけど、そういう人々の不安を利用するようなことも行われるようになるんだろう。
しかし、景気が回復したら人の心にも以前のように余裕が戻るのだろうか。心配してもしょうがないけど、それでも心配になる。
2002/11/04 (月) 晴れ
夜中に日光を縦断する。川俣の渓谷の周囲をゲネグネとうねった道が続く。しかも、物凄く暗い。街灯がないのだ。民家の明かりもない。時折、道が少し開けたようなところに小さなドライブインを確認することが出来るものの夜中とあって人の気配は消えうせていて明かりはない。しんとしている。雪も少し降り、さらにしんとする。このような暗闇は久しぶり。もう何年も都会の明かりの洪水の中で暮らしていたんだと改めて気付かされる。こういうことを言うと、あたかも都会の真中に住んでいるように思えるだろうが、さほどのところではない。どちらかというと田舎の部類に含まれるようなところに普段は住んでいる。そんなところでも光の洪水に溢れているということがこの暗闇の中で再確認出来る。
真っ暗闇だということは心理的に不安を掻き立てたりだとかそういう側面もあるかもしれない。それよりも前に道を進む身にとっては危険だ。ところが、そういう側面ばかりではないということを発見するのには時間はさほど掛からなかった。
星空だ。
手に掬い挙げることが出来そうな360度の星空。
これはもう星空ではなく星の海なのだ。全くの暗闇の非常に久しぶりだったけれども、星を掬えるほどに見るというのも何年もしていない。思い起こせば、少年のころに初めて見る満天の星空を見上げて田んぼに足を取られて以来だ。掬うように見える。掬うように見えるなんてうそだろうと訝る向きもあるだろう。それでも、掬えるのだ。このような場合には遠近感だとか掬えるわけがないなんていう生半可な知識なんかは全くいらない。自然に手が動いて星を掬おうとする。
久しぶりにいい思いをした。
ちなみに、いい思いというのはこれだけに留まらなかった。2匹のキツネと1頭の鹿に遭遇したのだ。キツネは経験がある。大きいという意味ではカモシカにも長野で遭ったことがある。
鹿は突然に料金所の前に現れた。車との距離は1メートルと離れていない。実際、料金所の人が道路の真中に出てきたのかと思って慌てたほど。まぁ、人であったよりもさらに一層慌てた。一瞬、ほんの一瞬だけれども、長い一瞬、鹿と私の視線は完全にドッキングしたのだ。互いに何か理解していない。なんなのだ、これは、鹿の気持ちは知る由もないけれども、きっと、そう思ったに違いない。それは、視線をドッキングさせた私だけが知っている。
鹿だ。その瞬間に鹿は大きく弧を描いて茂みへと消え去った。大きな鹿だ。角の大きな鹿だ。余韻だけが淡く心に強く刻まれた。
2002/11/03 (日) 晴れ → 雪
片品村経由で奥鬼怒へ行く。
途中、面白いものを目にする。最初は飾り物かとも思った。気になったので店に立ち寄り、お店のおばぁさんに、何かと尋ねる。
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この繭玉のようなものはれっきとした植物。それも、日ごろよく目にし、口にするもの。トマトかな。そうも思ったが茎の色が違う。もちろん、作り物とも明らかに違う。お店の人に尋ねる。
「それはハナナスだぁ」
はななす?はな−なす?花ナス。そう、茄子なのだ。到底、一見したところでは茄子には見えない。まぁ、茄子と言われて良く視ると茎は茄子の茎。
聞けば、生け花に使うとのことで、黄色いものが多かったが熟すると赤くなるのだという。
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中禅寺湖に行く手前で光徳牧場から川俣への道を辿る。光徳牧場の近くのホテルで一服するも人はまばら。このホテルはしばしば利用している。食事の後、川俣へ。ところが、ここで雪に会う。この辺りは栃木県といっても新潟や福島に近いせいだろうか。金精峠の辺りにも雪は積もってはいたが降ってはいなかった。まだ、11月になったばかりというのに、雪。ところどころで側溝にタイヤを落として身動きの取れなくなっている乗用車に会う。こちらは幸いにも無事に川俣へ辿りつく。
川俣温泉峡の入り口に架かる橋からみる紅葉の風景。川の両側がこのように色づいている。平家平を超えた辺りでは車で一杯だった。この写真の奥のほうには川へと降りる道がある。
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