[分国法]

 「応仁の乱以後は、室町幕府の権威は地に落ちてしまって、鎌倉時代から綿々と続いてきた式目も蔑ろにされてくる。」
 「各国の守護大名が力を付けてきて、幕府に対して下克上の風が蔓延るだけじゃぁなくて、各国の中でも守護大名対守護代などというように下克上が蔓延していたのよね。」
 「そうした中で、各国の大名の領地内で各国独自のいわゆる分国法が施行されていくね。」
 「面白いのは、下克上、下克上とはいっても、各国の大名がそれぞれ独自に施行した分国法の形式が室町幕府の式目の形式に従っていることかしらね。」
 「それは言えるよね。
 独自とは言っても、各大名が独自に勝手に定めたわけじゃぁない。それは、天下統一の道筋を作った織田信長の施行した法令にも言えるね。
 この点は注意の必要がある。」

 ※ 『織豊時代の法令』および『足利家の家法』を参照のこと。

 「そうね。
 例えば、分国法のうち有名な『長曾我部元親百箇条』に『一、質物の事。盗人或は火事、露顕の上に失うにおいては、借銭相捨つべき事。』なんていう条文があるんだけど、」
 「室町幕府が出した永享5(1433)年10月の制の土倉の質物が盗難にあった場合は本債権は消滅するっていうのと同じだね。
 質権っていうのは物権でしょ。そうすると、質物が債権者と債務者の双方の責に帰せざる事由によって滅失した場合には、特定物だから債権者主義が適用されて本債権は消滅するとはならないようにも思えるけど。」
 「それって、引っ掛けてるの?
 質権って物権だけど、担保物権よね。だから、担保物権と債権とを一体とみて(担保物権付債権)、原則通りの債務者主義を適用するんでしょ。」
 「ちなみに、現代民法では双務契約の債務の一方が債務者の責に帰せざる事由によって後発的に不能になった場合に、債務者が損失を負担するというのが債務者主義(536条1項)で、これが原則。
 例外は特定物に関する物権の設定とか移転の契約の場合で、この場合は債権者主義(534条)が適用になる。」
 「現代でも室町以来の慣習法が条文として活きているのね。
 少し、分かり辛いかもしれないから補足しておくと、
 債務者とか債権者っていうのは、後発的に不能になった債権を基準に見ているのよね。」
 「売買の場合だと、目的物の引渡請求権を持っている買主が損害を負担するのが債権者主義だね。」
 「律令の時代にも日本の固有法は活きていたし、その固有法が様々な形で、しかも極端な形で開花したのが分国法の時代と言えるわね。
 そうした固有法も明治維新後の西洋法継受時代には断絶したように思えるけど、実はDNAは受け継がれているのね。」
 「分国法を単なる戦国時代の法体系だっていうように過去のものとしてみるのも一つだけど、現代という鏡を通して見てみると面白いよ。」
大内家壁書 『群書類従』に収められている周防・長門守護大内家の分国法。
51条が永享11(1439)年から明応4(1495)年に制定された。
今川仮名目録 『史籍集覧』に収められている駿河国主今川家の分国法。
53条のうち32条は大永6(1526)年に氏親が、21条は天文22(1553)年に義元が制定。
塵芥集 天文5(1536)年に陸奥探題伊達稙宗による171条からなる分国法。
稙宗は天文2(1533)年には『質物蔵方の掟』13条を制定している。
甲州法度之次第 上下2巻からなる武田晴信による天文16(1547)年制定の分国法。
朝倉英林壁記 朝倉孝景による分国法。
相良氏法度 肥後の相良為続、長毎、晴広により制定。
結城家法度 結城政勝による分国法。
六角氏式目 民事関係の規定、土地売買・債務関係の規定などからなる、六角義賢、義治による分国法。
新加制式 阿波三好氏による分国法。
伊勢宗瑞17箇条 『伊達文書』に見られる後北条氏の法令。