[延喜の荘園整理令]
「律令体制下では土地は公地制でしょ。私有ではない。」
「完全に私有を認められていなかったわけじゃぁないよね。」
「一代限りの保有・用益権を認められたが売買を認められなかったという口分田と自らの手で開墾して保有・用益権の売買や相続が認められた墾田の2種類の制限された所有形態があったわね。
墾田は、743年の墾田永年私財法で一定の面積にかぎり永久私有が認められたのが始まりだけど。
でも、建前としてはあくまでも土地は国家が管理する公地制ね。」
「でも、それは墾田によって崩れていたわけだ。
そこで、醍醐天皇の時(902年)に藤原時平の主導のもとで最初の荘園整理令として『延喜の荘園整理令』を出して、中央貴族が勅旨田の開発を行うことや地方豪族が中央貴族に対して寄進を行うことを禁止して律令体制を徹底しようとするんだね。」
「口分田・墾田の区別を無くしてみんな公田とするわけね。
それで、その公田を課税単位としての名に再編してその田を1年単位で請負わせようという意図ね。
これは公田制とか負名制度って言われている。」
「中央貴族と地方豪族とのチェーンを断ち切ることを目指したわけだ。」
「その意図は見事に当たって、多くの荘園はこの『延喜の荘園整理令』を境に衰退していくわね。」
「その一方で班田はこの『延喜の荘園整理令』以降は行われなくなるね。
そして、思惑とは逆に勢力を削がれたはずの荘園は再び力を盛り返し、1069年、後三条天皇の時に『延久の荘園整理令』が出されることになるんだね。」
「それでも時代の流れを変えることは出来なかったわけよね。
後白河天皇は、保元元(1156)年に保元の乱を制して政権を確かなものにしたわね。そして、保元の整理令いわゆる新制7ヵ条という荘園整理令を出すわ。
これはいわば最後のゆり戻しかしらね。」
「保元の乱は伊勢平氏の平 清盛が台頭してくるきっかけになるからね。
いうまでもなく、平氏政権の台頭は源氏による鎌倉幕府への発火点になったし、鎌倉幕府は律令ではない日本独自の慣習法を尊ぶ関東武士の政権だからね。」
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