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[石川島人足寄場跡]
相生橋から石川島公園を望む。
かつては、この辺りに人足寄場が置かれていた。但し、設置当初は石川大隅守屋敷裏と佃島との間の小島に設置され、佃人足寄場とも呼ばれた。写真の場所(佃2丁目)の付近は大隅守屋敷に当たるが、寛政4(1792)年に大隅守屋敷は御用地となり、この地も人足寄場の油絞場が置かれた。
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人足寄場は、江戸近郊にいた無宿人のうち捕縛されて入墨あるいは敲の刑になったものや吟味したものの無罪が確定したものを収容した施設。
石川島の人足寄場は寛政2(1790)年に火附盗賊改方長谷川平蔵宣以が老中松平定信に建議して創設された。正式な名称は「加役人足寄場」といった。
このような無宿人に対して授産をもって懲戒主義の追放刑に代えるという思想は、近代的自由刑の最初といわれるアムステルダムの懲役場に通じるものがあると考えられている。
もっとも、無宿人対策という意味では、安永6(1777)年に勘定奉行石谷清昌の建議によって佐州水替人足の制が敷かれている(石谷清昌はかつて佐渡奉行を務めた)。これは無宿人を佐渡へと送るものだが、同じく安永9(1780)年には南町奉行所が「無宿養育所(深川茂森町)」を開いている(瀧川博士)。しかし、「無宿養育所」は早く天明6(1786)年には廃止されており、その意味でも機能していたのは「石川島人足寄場」だと言える。
石川島人足寄場送りは文化2年以後の佐州水替人足と同じく保安処分であった。
しかし、文政3(1820)年には、江戸払以上の罪を宣告されたもののうちから情状によって5年程度の人足寄場送りという、追放刑の換刑としての懲役場としての性格を持つようになる。この制度は一旦は天保9(1832)年に廃止されるものの、天保11(1834)年には旧に復した。
収容者は寛政5(1793)年には132人、文化10(1832)年で132人、天保13(1842)年には430人、弘化2(1845)年では508人であった。
この人足寄場は、松平定信が『宇下の人言』で言及しているとおり一定の成功を収めた。また、天保13(1842)年には老中水野越前守が追放刑の廃止を建議するという画期的なことがことが起こるが、評定所(和田倉御門内辰ノ口評定所)で結論が出ず、次善の策として浅草溜に非人寄場が設けられている。こうした積み重ねの結果を見て、幕府は追放刑に換えて自由刑を科す寄場の設置を江戸以外の天領と大名領に勧めるに至る。
なお、石川島人足寄場は明治3(1870)年に廃止された。
[参考文献]
[1] 『日本近世行刑史稿』上、日本刑務協会(昭和18年)
[2] 『刑罰詳説』本刑編、佐久間長敬(徳川政刑史料前編第三冊、明治26年、近代犯罪科学全集第13巻「刑罪珍書集」I)
[3] 『刑罰の歴史-日本』、石井良助
[注]
[1] 佃島は向島と呼ばれる干潟だった。後に佃島の住民となる庄屋森孫右衛門をはじめとする摂津国西成郡佃村と大和田村の漁民達は最初、徳川家康の命により日本橋小網町安藤対馬守屋敷内に居住していた。しかし、後に向島を拝領し埋め立てを行って佃島とした。正保元(1644)年のことである。
[2] 石川島も向島同様、森島あるいは鎧島と呼ばれる干潟だった。それを、船手頭石川八左衛門が拝領し屋敷としたことで石川島と呼ばれるようになる。石川家(4000石旗本、相州上矢部)は寛政3(1792)年に石川島から永田馬場(現永田町)に居を移している。