[ 大化の改新 ] 乙巳の変 645年6月12日
「聖徳太子の死後に勢力を握っていたのは、聖徳太子もその一族だった蘇我氏だね。蘇我氏は太子の子の山背大兄王をも滅ぼして、自らが大王のような振舞い方をしたといわれるね。聖徳太子、最近だと厩皇子かな、彼の定めた冠位でも蘇我氏は例外扱いとなっていたね」
「聖徳太子が存命中から蘇我一族はかなりの勢力を持っていたわけね。その蘇我一族にとって太子の子の山背大兄王は目の上の瘤だったわけだけど、山背大兄王を滅ぼしてしまうと、もはや向かうところ敵なしね」
「だけど、その権力の絶頂期に密かな野望を持った若者が現れる。中臣鎌足だ。中臣氏は一族を上げて物部氏に与力したために蘇我一族によって族滅に近い状況に追いやられている。その中で、中臣鎌足は密かに一族の復活を掛けて行動を開始する」
「もちろん、中臣一族の復活だけを主眼においたわけではなくて、あくまでも天下国家のために蘇我氏を除くという考えが主眼ね。その中臣鎌足が最初に白羽の矢を立てたのが軽皇子。皇位継承者でもあり、軽皇子とも相当に気脈を通じていたと言われるわね」
「ところが、軽皇子の腰は重かった。実行力に難があったんだね。とはいえ、軽皇子を非難することは出来ないね。何しろ、当時、大王にも勝るような権力を誇っていた蘇我一族を屠ろうという企みだからね。しり込みして当然といえば当然だ。もっとも、この段階では心の中を全て打ち明けてはいないだろうけど」
「軽皇子の腰が重かったというよりは鎌足のほうが軽皇子を見限ったというべきね。そして、それでも鎌足は諦めなかった。次のターゲットとして、いやパートナーとして中大兄皇子に目を付ける」
「中大兄皇子への鎌足の接触の仕方がまた映画のようなものだね。なかなか接触の機会がないものだから、飛鳥寺西の槻樹之下の蹴鞠会で皇子が靴を飛ばしたところをすかざず拾い上げて中大兄皇子の知遇を得るんだね」
「そして、ここからが展開が早いわね。この時点で鎌足はもうこの人と定めたのね。対する蘇我の一族であり、一族の長老の蘇我入鹿の従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂を自分の陣営に誘い込む。つまり、鎌足は中大兄皇子に石川麻呂の娘を嫁がせたわけね」
「それだけではないね。当時、蘇我入鹿は50人からの護衛を従えて行動していたわけで、しかもこの護衛達は片時も蘇我入鹿の側を離れない。このままでは蘇我入鹿の暗殺は無理と考えた鎌足は何とかして護衛を引き離す方策を考える」
「それが、三韓(高句麗・百済・新羅)の使者が大極殿にて天皇に贈り物(調)を捧げる儀式の最中に暗殺を実行するという方策ね。しかも、念には念を入れて蘇我入鹿が帯びていた刀を俳優を使って取り上げている。ここで俳優にやらせたのがミソね。蘇我入鹿もまさか、俳優のおどけた仕草にすっかり安心したんでしょうね」
「まだまだ、仕掛けたわけだよね。入鹿の暗殺を決行する合図は大極殿で石川麻呂が上表文を読上げるときと定めて、刺客として佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田を潜ませていたんだけど、さらに弓矢を隠し備えていたといわれる。果たしてこの隠し持っていた弓矢は何だったのか、刺客の2人がしくじったときに、鎌足自らが蘇我入鹿を討ち果たすためだったのか、あるいは...」
「その先は想像ね。あるいは2人を討つはずだったのか。その場合は、石川麻呂も消さなくてはいけないわね。ともかくも、石川麻呂は上奏文を読上げる。ところが、何も起こらない。出てくるはずの刺客が現れない」
「焦る石川麻呂ってところだね。石川麻呂は計画が漏れたかと、気が気ではなくなり、それが声にも出てしまう。ガタガタと震える様を蘇我入鹿に冷やかされる。やっとの思いで『帝の前だから緊張している』と切り抜けたと思ったその刹那、中大兄皇子自らが踊り出て蘇我入鹿を頭から肩にかけて斬りつけた」
「続いて、子麻呂が足を斬りつけ、鎌足が矢を放つ。目の前で繰り広げられた惨劇にただただ驚く皇極帝、彼女は中大兄皇子の母親にあたるわ。彼女はなすすべもなく奥へと去っていく。蘇我入鹿は皇極帝の寵愛を受けていたから、この場面を死に際して目にしたというのは残酷ね。最後の言葉『私に何の罪があるのか』と子麻呂と犬養連網田に止めをさされ、中臣鎌足に刎ねられた首は宙を舞ったというのが無念さの証左といえるわ」
「さらに、異変を聞いた入鹿の父である蝦夷はもはや勝ち目はないと屋敷に火を放ち自害に至り、ここに権勢を誇った蘇我一族の嫡流は露と消える。そして、(1)豪族が私有していた土地・人民を国家が直接支配するようにする公地・公民、(2)戸籍をつくり,公地を公民に分けあたえ,死ぬと国に返させるという班田収授の法、(3)国郡制度、(4)租・庸・調の税制などを実行に移していくことになるんだね」
『中国継受法時代』
日本の法制の歴史は、@日本古来の法体系が支配的でありつつも中国大陸の影響を漸次受けていた「固有法時代」、A大化の改新から源 頼朝を首班と仰ぐ関東武士勢力による鎌倉幕府創設までの400年に及ぶ「中国大陸法継受法時代」、B「中国大陸法継受法時代」に終焉を告げた鎌倉開府から江戸徳川幕府が薩長勢力によって倒された明治維新までの700年の長きにわたる「融合法時代」、そしてC明治維新後から現在に至るまでの130年余の「欧米継受法時代」に区分される(滝川説)。
なお、このように区分されるとしても、そのそれぞれの時代を画する契機によって、日本の法の流れが全き断絶されるに至って、それ以降は顧みられなくなったのではない。
むしろ、それぞれが地層のように折り重なりつつも、さらには新しい法思想が旧来の法思想を克服したかに見えても、その流れは恰も地上の政権の移り変わりにもかかわらず、平安京の地下を二千年にわたる悠久の歴史の中で流れ続け、庶民の生活を支えた大きな地下水脈のように絶えることなく一貫したものがあったともいえる。
ともあれ、『唐六典』に、「凡そ律はもつて刑を正しく罪を定む。令はもつて範を設け制を立つ。格はもつて違を禁じ邪を正す。式はもつて物を軌し事を呈す。乃ち刑名の制を立つる。」とある、律(刑罰法)、令(教令法)、格(矯正法)、式(施行細則)は、我が国ではそのまま継受されたのではない。
滝川博士が指摘するように、日本の律は刑罰法のみならず矯正法をも含むものであり、日本の格は臨時法の性格をもって導入され施行された(『日本法制史』)。
大化の改新によって、公地公民、班田収受の法、国郡制度、租・庸・調の税制が志向されていくが、これらは国家建設の高い理想のもと、中国大陸の法である律令を本格的に導入するという流れの中に位置づけることが出来る。
律の刑法おいても、裁判は法律の条文をもって行うということが要請されていた。しかし、これをもって、この時代においても近代刑法と同じく罪刑法定主義が我が国において採用されていたとは到底言うことが出来ない。すなわち、この頃の刑法は成文法主義を表明してはいても罪刑を事前に法定すべきことまでは定めていないからである。また、原則として属地主義が採用されていたものの、当時、日本各地に多く居住していた、いわゆる渡来系の人々に関してはそれぞれの母国の法を適用すべきという属人主義を採っていた。
[Table] 改新の詔 「日本書紀」
其の一に曰く、昔在の天皇などの立てたまへる子代の民、処々の屯倉、及び別には臣・連・伴造・国造・村首の所有てる部曲の民、処々の田荘を罷めよ。仍りて食封を大夫以上に賜ふこと各差有あらむ。降りては布帛を以て官人・百姓に賜ふこと各差有あらむ。
其の二に曰く、初めて京師を修め,畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬を置き、及び鈴契を造り、山河を定めよ。
其の三に曰く、初めて戸籍・計帳・班田収授の法を造れ。
其の四に曰く、旧の賦役を罷めて、田の調を行へ。
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[Table] 律と現行刑法の用語比較
故失 |
故犯 |
故意 |
誤失=「耳目の及ばざる所、思慮至らざる所。」『闘争律』 |
過失 |
「其れ本まさに重くすべくして犯す時は知らざる者は凡論に依れ。本もまさに軽くすべき者は本に従うことを聴せ。」『名例律』 |
現行刑法38条2項 |
自首あるいは自挙(じこ) |
自首 |
[Table] 律の刑罰
正刑 |
苔(ち)、杖(じょう)、徒(ず)、流(る)、死の正規刑罰。 |
換刑 |
贖、加杖、留住役(りゅうじょうえき)のように正規刑罰に換えて行われるもの。 |
閏刑 |
特別身分への科刑。 |
付加刑 |
没官(もっかん)、移郷。 |
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主な出来事 |
645 |
大化の改新が実施される。翌年には4ヵ条からなる『改新の詔』が出され、@公地公民制、A地方制度、B班田収授、C税制について唐の制度にならう新政権の方針を打ち出す。 |
656 |
[斉明4]有間皇子謀反事件。 |
663 |
白村江の戦いで日本が敗戦。 |
668 |
日本最古の令である『近江令』が制定される。中臣鎌足らが中心となって編纂した、22巻からなる日本で最初の令。内容不詳。律は存在せず。 |
672 |
[弘文元]壬申の乱。 |
676 |
新羅が朝鮮半島を統一する。 |
681 |
[天武10]飛鳥浄御原令制定。施行は持統天皇の時になる。この法典は粟田真人らが中心に編纂し、令は22ヶ条からなる。律は完成しなかったとされる。 |
686 |
[朱鳥元]大津皇子謀反事件。 |
701 |
大宝律令が完成する。律・令ともにそろった日本で最初の法典。刑部親王・藤原不比等が編纂に従事し、律(刑法)は6巻、令(民法・行政法)は11巻からなる。 |
718 |
『養老律令』完成。施行は南家の藤原仲麻呂により758年から。この法典はその後長きにわたって使用されるさことになる。 |
2002年9月8日:前日の「北の国から」の余韻残る中で初記。
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