鎌倉幕府の執権、北条時宗の開基による臨済宗円覚寺派総本山。北鎌倉の駅を降りると、すぐ目の前にある。北条時宗は無学祖元(仏光国師)を中国から招聘し禅に帰依し、文永・弘安の役(※1)という二度に及ぶモンゴル帝国軍の日本侵攻に対処した。文永・弘安の役の後に、日本・モンゴル軍の戦死者を弔うために、円覚寺の建立を発願。 同地より円覚経が出たことより、名を円覚寺としたという。開山の法灯は天竜寺の夢窓疎石に伝えられ「仏光派」を形勢した。 弘安6(1283)年に鎌倉幕府の祈願所とされるも、弘安10(87)年と正応3(90)年に全山焼失という災難に遭う。その後、再建され、室町時代には五山第二に列せられ、建長寺と並んで双璧をなした。戦国時代以後は寺勢は衰えたが、江戸末期に誠拙和尚により伽藍を復興し円覚寺を再興した。これが、およそ現在の円覚寺の姿となっている。 山内には、18ヵ寺の塔頭(たっちゅう)がある。 ※1)文永の役は文永11(1274)年。弘安の役は弘安4(1281)年。 芝増上寺の横に位置する古墳。 全長106メートル、後円部64メートルという都内最大級の古墳。残念ながら、江戸時代に頂上の部分と後円部の西側が破壊されており、全体の姿を今に留めてはいない。しかし、古墳であるということは、現在でもはっきりと確認することが出来る。明治31年に坪井正五郎博士が調査を行ったものの、損傷が激しく詳細を知ることは出来なかったという。 5世紀に築造されたと考えられ、その規模から見て、南武蔵の有力豪族のものと考えられている。 都営三田線の御成門駅から西へいったところが、一関藩(現在の岩手県内)藩主田村右京太夫の上屋敷跡。現在は、多数のオフィスビルが立ち並ぶが、ここは播州赤穂藩藩主浅野内匠頭長矩が切腹したところ。 元禄14(1701)年、江戸城松之廊下にて、高家筆頭吉良上野介義央(よしなか)に刃傷に及んだ勅使接待役浅野内匠頭長矩は即日切腹の沙汰となり、「風さそふ花よりもなほ我はまた 春の名残を如何にとやせむ」と詠んで果てた。 当時の武家法では、喧嘩両成敗が原則のところ、吉良家には何らの咎めも受けず、しかも、播州赤穂浅野家は後に廃絶となったことから、赤穂浪士による討ち入りを招く。 多摩川を拝島橋で渡り、少し行ったところで交差している滝山街道を秋川方向へとしばらく進むと滝山城址入り口の標識が立つ。滝山街道は細い道なので、少し通行に注意が必要。八王子の市街地や横浜方面から来ると滝山街道よりも手前のやや広い道を西に進んで突き当たりを北上し滝山街道を東に戻るとすぐのところが入り口になる。滝山街道をそのまま進み、山を越えて多摩川沿いを秋川方面へ行くと高月城がある。 滝山城は大永元(1521)年に武蔵国守護代大石定重が高月城から移って築城した山城。その後、大石氏は後北条氏康に下り、定重の子の定久が北条氏康の子の氏照を養子として、氏照が城を拡充し関東屈指の山城とした。 越後の上杉謙信、甲州の武田信玄の猛攻を度々受けるものの落城せず、信玄・勝頼による永禄12(1569)年10月侵攻にも耐えた。しかし、更に備えを強固なものにするために南方の八王子城を築城して本拠を移したために廃城となった。天正年(1580)代のことという。 現在、滝山城の辺りは都立滝山公園となっており、三の丸、二の丸、中の丸、本丸などが名残を留めている。 城下町として、横山、八日市、八幡の三宿があったが、これら三宿は滝山城下、八王子城下、現在の八王子市街地と移動し名を残している。 さらに、滝山城から多摩川を挟んだ北側には滝山城の鬼門封じとして建立された普明寺大日堂があり、大日八坊といわれた過日を偲ばせている。 駅から妙心寺はそれほど離れていない。駅前の通りを歩いて少し行くとガソリン・スタンドが見えてくる。そこで道を渡ると参道になっている。 当日は生憎の雨。京都に来て雨に降られるというのは今回が初めて。 それでも、花園の駅から妙心寺までの距離は僅かなものだから雨は苦にならない。そもそも、花園という名前そのものが妙心寺を表していると言ってもいいだろう。妙心寺、正式には臨済宗妙心寺派大本山正法山妙心寺の起源は花園帝(1297-1348)が、衣笠山の南に離宮を営んだことに始まる。帝は禅宗に帰依され、大徳寺開山大燈国師に教えを乞う。そして、帝は、この大燈国師の後に教えを乞う師がいなくなるのを心配したために、大燈国師が自らの法嗣である開山慧玄を推挙し、開山慧玄を以って離宮を寺院に変えたという。但し、この開山慧玄は自らを民衆の中に置く放浪の求道者でもあったために、美濃国伊深から京に招くのに三顧の礼を尽くしたとも言われている。 その開山慧玄亡き後は、南朝の藤原藤房こと第二世授翁宗弼、第三世無因宗因、第四世日峰宗舜、第五世義天玄承と受け継がれ、第六世雪江宗深の代に景川、悟渓、特芳、東陽の四傑から龍泉、東海、靈雲、聖澤の四派を生んだ。 この妙心寺は花園大学などの教育機関を擁していることでも知られている。しかし、驚くべきは、本山の中に子院塔頭が40を越えるということ。 |