異論があることを承知の上でいうと、二尊院の紅葉が一番綺麗なのではないだろうか。といって、他の紅葉がどうということではない。色づき具合が一番素晴らしいという訳ではない。極めて主観的なのだけれども、初めて嵯峨野の地に足を踏み入れたときに見事に色づいていたのが二尊院だった。これは、あくまでも偶然の出来事。周囲の紅葉は既に時期を過ぎていて地面に絨毯を拵えていたのだが、二尊院だけは赤かった。そういう事情での一番ということになる。 強(あなが)ち、主観的な思い込みも外れてはいないと見えて、山門から続く道は「紅葉の馬場」と呼ばれ名勝として知られている。そう馬場なのである。 この寺は三条実美や俳優の阪東妻三郎の墓があるということでも知られている。 蛇足になるが、少し時期を外して来ると、この寺の本当の良さを味わえる。 野ノ宮社を後にし山陰本線の線路を越えると例の竹林がある。この辺りでは観光用の人力車に出くわすことがしばしば。乗っているお客が着物姿などだと雰囲気は一気に絵巻物の世界となる。 如何にも郊外らしい畑の横を通り落柿舎を畑の向こうに見ながら進むと常寂光寺が妖しく誘う。紅葉の季節には眩いばかり。 入り口の門から仁王門に至る道はさながら紅葉のアーチと化す。全体としてこじんまりとした趣をなしているが、これがまた風情を増すのに一役買っている。 常寂光という名は、豊臣秀吉の東山大仏の開眼千僧供養への出仕を拒否した日禎が隠居の地として定め、小倉山にあるこの地が常寂光土の感ありとしたことによるとされている。 嵐山から少し歩いた嵯峨野の入り口に位置する。源氏物語所縁の神社として知られており、ここが嵯峨野巡りの小旅行の出発点。 ここへは何度も足を運んでいる。何度赴いても雰囲気が良い。良く時代劇やサスペンス物に出てくる竹林はこのすぐそば。 この神社は伊勢神宮の斉宮の皇女が伊勢に行く前に潔斎をしたところであり、ために祭神は天照大神となっている。 もともとは、潔斎を行う野宮は帝の即位毎に定められていたと言われる。その慣習も平安時代の初期には廃れ、位置が固定されるようになり、そして社が建立されるようになる。その社が野ノ宮神社ということになる。そう言われてみると、辺り一面に、それまでの嵐山の喧騒を離れた荘厳な雰囲気が漂っている。神を感じるというべきだろうか。社が現在のものよりも大きければそうした意識を持つことはなかっただろう。神々しい雰囲気を醸し出すには程よい大きさということだろうか。 嵯峨天皇皇女仁子内親王の代から、この地が使用されるようになったとされるも、室町の南北朝の兵乱によって、そもそもの斎宮制度が途絶え社のみが残された。社のみとなっても、しばらくは後奈良天皇、中御門天皇などから大覚寺宮に綸旨が出されたように皇室の保護を受けていたという。 黒木鳥居と小柴垣に代表される現代の聖地は昔からの聖地であり、物語の上での聖地でもあったことは源氏物語「賢木の巻」における描写で伺える。そのためであろうか、この神社には多くの若い女性が詣でている。 檀林寺の前を通り過ぎて、道を登ると祇王寺がある。ここは嵯峨野の紅葉の名所の一つである。祇王寺で大覚寺との拝観共通券を購入して、祇王寺を堪能する前に、そのすぐ横というのか脇にある滝口寺を先に訪れる。 滝口寺を訪れる目的は、かの滝口入道の悲恋悲話に思いを馳せることにあるのではない。もちろん、滝口寺といえば、滝口入道のエピソードをもとにして、明治維新後に廃寺となっていた往生院三宝寺を祇王寺とともに復興の上、歌人佐々木信網が高山樗牛の歴史小説「滝口入道」に因んで命名した寺としてつとに知られている。 さて、それでは、何を目的として、滝口寺に足を踏み入れたのか。他でもない、この滝口寺にある鎌倉幕府倒幕の重要な立役者、新田義貞の首塚に詣でるためだ。 新田義貞は、言うまでもなく鎌倉時代の関東の武将。元弘の乱に際して、鎌倉幕府軍の一翼を担い出陣するも、本貫の地である新田庄における北条被官による横暴を契機として、鎌倉幕府に反旗を翻し新田庄から鎌倉街道を一気に南下して鎌倉の地に侵攻し、北条一族を族滅させた(正慶2[1333]年)。 建武の新政で左兵衛督に任ぜられるも、同じく源氏の足利尊氏と対立し、一時は尊氏を九州に駆逐する。しかし、九州勢を加えた足利軍に「湊川の戦い」で敗れる。再起を図り、恒良親王・尊良親王を奉じて越前金崎城で足利軍と激闘を繰り広げるも敗戦。翌年、藤島で戦死し、三条河原で晒し首となった。 その新田義貞の首は勾当内侍によって往生院三宝寺に埋葬された。寺の入り口を入って直ぐ左に、重臣達を伴う塔が立つ。この塔を見るとき、北条一族が揃って腹を切った東勝寺跡の塔を思わずにはいられない。いづれも、兵達が夢のあとなのか。それにしても、北条を打ち破った新田義貞の世の如何に短かったことか。 さて、この寺は、その鎌倉幕府が樹立される以前に、小松内大臣重盛が家臣斎藤滝口時頼が花見の席で建礼門院の女官横笛を見初め、恋に落ちるが父親の反対に合い、出家を遂げることで横笛への思いを断ち切ろうとした物語の舞台。滝口時頼の出家を知った横笛もまた滝口時頼を慕って滝口寺に赴くも、滝口入道は未練を断ち切るために横笛に会うことを拒む。その後、滝口入道は募る一方の横笛への思いを忘れようとして嵯峨野の地を離れ、遠く高野山に登る。横笛も滝口入道の後を追い法華寺で出家し、それを知った入道が 「そるまでは恨みしかとも梓弓 まことの道に入るぞ嬉しき」 との歌を、横笛が 「そるとても何か恨みむ梓弓 引きとどむべき心ならねば」 との歌を返したというエピソードが伝えられる。横笛はそのすぐ後に募る思いを胸にこの世を去り、滝口入道はその思いと自らの思いを胸に秘めてさらなる修行に打ち込んだという。 嵯峨野から程近いところにある古寺。元享元(876)年に後宇多天皇が再興し、その後に後宇多天皇の系統を大覚寺統と称したために、通称、嵯峨御所とも呼ばれる。 あたりには素朴な京都がある。 ここから四条に行くには、一旦、嵐山まで戻って嵐山線に乗るか、門前のバス停を利用するのが良い。でも、お勧めは嵐山経由。 [参考]文保の和談 |