34番から振り出しの1番へ。途中で饅頭を喰らう。秩父の市内に入って道をグルグルと回って1番に辿り着く。 ここは、行基よって観音像を安置したのが始まりとされ、後に秩父霊場を開いた性空上人(播磨国書写山円教寺)の遺命で堂宇を建立したのだという(中興開山は幻通上人)。その頃は四万部山にあったが山を下った。下ってからは、秩父24番札所とされてきたが、江戸からの参拝の便宜を考えて飯能経由での入り口に当たるために1番に改められる。そのためだろうか、四万部寺の前には旅籠がある。こうした旅籠をはっきりと目にしたのはこの1番だけだ。その他にも、例えば13番の近辺などにも旅館があるが寺の前ではなく、少し離れたところにあった。江戸から飯能を経てはるばるやってきた庶民が、さぁ明日から巡礼を始めようと、ここで旅装を解く。そういうことが見られたのだろう。 なお、この寺は、端山守的(大宮郷広見寺)による妙音寺(曹洞宗)開山に伴って、妙音寺が性空上人の観音堂の別当となり、一体化して四万部寺となったという。 2002年10月14日 秩父市大字栃谷418 嵯峨野も外れにある辺り、ここはもう嵐山という所に天竜寺はある。京福嵐山線の嵐山駅の直ぐ前にあるから、嵯峨野・嵐山観光の出発点といっていいだろう。 しかし、今回は京福を利用せず、阪急で桂まで下がって嵐山に出向いた。理由は簡単。京福の嵐山駅に降り立つと、天竜寺を拝観してからわざわざ渡月橋を渡ることになる。嵯峨野の散策をゆるりと楽しみたいと考えていたので、再び渡月橋を引き返してくるよりはと考えた次第。 この天竜寺、貞和元(1345)年に創建された古刹で、南禅寺、建仁寺、東福寺、万寿寺と並んで室町幕府から京都五山の地位を与えられた由緒ある寺として知られている。後に、京都五山に相国寺が加えられて、南禅寺が別格とされると天竜寺は京都五山の第一位とされる。つまりは、それだけ室町幕府から手厚く処遇されたということを示している。 しかし、不思議なことに、この天竜寺はその室町幕府と対立した後醍醐帝の流れである南朝大覚寺統と非常に所縁のある寺でもある。 そう、この寺は室町幕府の創設者である足利高氏が建武の新政の主導者である後醍醐帝を供養するために建立したのだ。足利高氏と後醍醐帝は対立するに至ったが、初めは鎌倉幕府倒幕のために力を合わせた仲。そもそも、源氏の血を引き、また、鎌倉幕府を支配する北条家とも深い繋がりのある足利高氏が鎌倉に弓引く決心をしたのは、後醍醐帝の力によると言っても過言ではない。とはいえ、悲しいかな、高氏は諸国の武家の期待を一身に集める武家の棟梁たる源氏、拠って立つ基盤は鎌倉以来の武家による統治。一方の後醍醐帝は、王政復古を理想とする。心寄せ合いつつも、やがてあい争うようになるのは必定だった。 このような背景の下で、後醍醐帝亡き後、高氏に後醍醐帝の供養を勧めたのが夢窓疎石。鎌倉の北条貞時を始め、室町幕府からも南朝側からも慕われた臨済宗の立役者である。彼は、天竜寺建立を勧めたが、その費用はいわゆる天竜寺船による元との貿易によって賄われた。そして、大覚寺統亀山離宮跡に完成したのが天竜寺なのだ。 このようなゆわれを持つ天竜寺には、後醍醐帝御菩提塚、嵯峨天皇陵、亀山天皇陵がある。 残念ながら、天竜寺は応仁の乱で全焼の憂き目に遭ったほか、ずっと下って幕末には長州藩の本陣が置かれたために、薩摩藩の攻撃により破壊されてしまった。しかし、その後の復興によって現在の姿を伝えている。 京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町にある浄土宗の寺。「しょうりょうじ」と読む。山号は五台山、通称は嵯峨釈迦堂。 もともとは、中国の五台山に見立てた愛宕山麓にある棲霞寺内における釈迦堂として建立されるが、信仰を集めて棲霞寺との主従の関係が逆になって現在に至っている。 この近くに大覚寺があるが、大覚寺と釈迦堂は16、7世紀以降に釈迦堂が「本願」系(浄土宗系)の管理するところとなったために、明治維新後には真言宗の流れを汲む傘下の子院が大覚寺に合併されたという関係を持っている。 檀林寺の前の道を真っ直ぐに進むと何とも言えない空気に包まれた空間が広がっている。滝口寺とともに良鎮(法然弟子)ゆかりの往生院の址に再興された祇王寺のある場所だ。 祇王寺の名で分かるように、平清盛の寵愛を受けていた白拍子の祇王が寵愛が仏御前に移ると、ここに母と妹とともに庵を結んだと言われる。その仏御前もやがて清盛から離れ祇王に導かれて仏門に入ったという。平家を日本一の家柄とし繁栄を築いた清盛はこの世を去り、続いて平家一門も滅ぶと共に清盛の供養をして一生を過ごしたとされる。 檀林皇后と呼ばれた、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(786-850)所縁(ゆかり)の寺。 建立の当時は坊が12もあったというから、かなり大きな寺院だったということになる。 今では、その面影を境内から知るということは出来ない。 現在の檀林寺は昭和39年に再建されたものというけれども、それでも猶(なお)荘厳であるのは、かつての名残のためと思うのは考えすぎだろうか。 |