林太郎定元が主家から追放され、困窮の中で世を去り、残された子供が預けられたのがこの寺という。 後に、主家が遺児を取立てて、林源太良元と名づけて、領地を授け御堂を建てて定林寺としたという。 故に、この寺をまた林寺と呼ぶ。 この17番までは案内板に沿って順調に歩くことができた。 何故か案内板は平行する舗道ではなくて畑の中の草道を示してはいたが。 ところが、ここから18番神門寺に向かうときに不覚にも道に迷った。地図に頼ったのがいけなかったのかもしれない。 埼玉県秩父市桜木町21‐3 境内に、四国八十八ヶ所霊場の諸仏をまつる回廊堂がある。 また、寺に入る前の小道を右に向けて歩くと、江戸時代の道しるべがひっそりと自己主張している。 埼玉県秩父市中村町4-8-21 中世、武蔵国は甲斐武田と後北条との戦場となった。秩父の地も例外ではない。 武田軍は後北条の支配する秩父を席巻し 焼け野原とした。これを「信玄焼」という。 そのとき、現在の今宮坊は長岳山金剛寺と呼ばれていたが戦火を免れなかったこと他に同じであった。 秩父の地に平和が訪れたときに、現在の 観音堂が建てられたという。 今宮坊に向かう途中には今宮神社があり、徳川家康が見とれたという伝説が残っている。 埼玉県秩父市中町25‐12 西武秩父の駅から仲見世を抜けて御花畑の駅の手前を曲がらずに真っ直ぐ歩くと慈眼寺がある。 札所巡りはここから始めたが、随所に案内板があるのが助かった。 その昔、日本武尊が東征の際に、この辺りに旗を立てたという。 旗下山という山号はこれに由来する。 また、慈眼寺のある辺りもまた旗の下と呼ばれている。 埼玉県秩父市東町26-7 京都駅からJR奈良線に乗って、5分程度で東福寺駅に着く。市バスを利用して東福寺に行く方法もあるけれども、簡単に行くことが出来るという点ではJRがお勧め。JRの東福寺駅は京阪の東福寺駅とプラットホームが隣接している。一度、JR東福寺駅の改札を東福寺側に抜けて、京阪の東福寺駅を経由して京阪の改札を抜けてはじめて東福寺への道に出る。JRの改札を抜けたところで切符を出してしまってはいけない。 行った時は、丁度、紅葉の真っ盛り。駅から東福寺までは10分程度だけれども、当日は人が途切れることなく続いていた。 駅前から東福寺へと至る道は以外に狭く、車が通ると思いっきり端に寄らなければならない。そうこうして、いくつかの塔頭寺院を見て、臥雲橋に至る。ここに来ると、人だかりが凄い。中々前に進むのが大変なくらいだ。それも、その筈で、ここから眺める通天橋は素晴らしい。真っ赤なのだ。通天橋からの眺めも言うまでもなく絶景だけれども、最初に見る、つまりは第一印象という意味で、ここからの通天橋の眺めは誠に絶景だと言える。 九条(藤原)道家が、東大寺および興福寺に匹敵する寺として、嘉禎2(1236)年から建長7(1255)年にかけて建設。開山は入宋して後、崇福寺と承天寺を興した聖一国師を迎え、天台・真言・禅三宗の塔を完成するに至る。しかし、天応元(1319)年、建武元(1334)年、延元元(1336)年の三度にわたる火災に見舞われ、多くを焼失した。その後、前の関白一条(藤原)経道の手によって貞和3(1347)年に復興された。 京都五山の一つであり、その後も藤原氏以外からの信仰も厚く、足利義持、豊臣秀吉そして徳川家康によって伽藍は整備を加えられた。 京都随一の寺院は、惜しくも、明治14年に再び多くを焼失するに至る。後に、再建され現在に至っている。 塔頭寺院一覧 万寿寺、退耕庵、盛光院、霊源院、竜眠庵、海蔵院、勝林寺、栗棘庵、善慧院、大機院、同聚院 、霊雲院、一華院、天得院、芬陀院、東光寺、桂昌院、荘厳院、願成寺、正覚庵、光明院、永明院、南明院、即宗院、龍吟庵 |