弘法大師ゆかりの寺という。 本尊は観音像だが、この観音像は宝明という僧がこの地で病に倒れた際に弘法大師が彫り与えたものと伝えられる。大淵寺はその宝明の建立による。 ここはまた、高崎観音・大船観音とともに関東三観音の一つでもある。 秩父市上影森411 地図で見ると12番の隣りにあるので線路づたいに26番に至る。 少し奥まったところにあったので、不覚にも道を失う。ところが、ここでも親切な秩父の人に巡りあった。その老人は円融寺へと至るひっそりとした道を教えてくれただけではない。この老人から教わったとおりに行くと意外に近くに円融寺はあった。門の前まで至って振り返る。なんと親切なご老輩がいるではないか。 秩父はなんと良いところなのだろうか。 埼玉県秩父市下影森348 西武秩父の駅から市役所前の大きな通りへと出て、小学校のある三本目の交差点を右に曲がったところの奥に位置する。 一応、駅で配られている地図、これは前回も使用したものをそのまま持参したが、その地図は持ってはいた。とはいえ、念のために駅前の観光案内所に立ち寄る。 秩父に着いたのがまだ朝の8時前だったので観光案内所は当然のように固く入り口が閉められていた。 そこで、次善の策として観光案内所の横の交番で道を尋ねる。 ここに居たのが非常に親切なおわまりさん。しかも、若々しく凛々しい。非常にと形容したのにはそれなりの理由がある。この交番で駅で入手した地図とは別の地図を戴いた。こうして合計2枚の地図を持って、少し歩いてから今日の計画を改めて確認する。と、先ほどのおまわりさんが走ってこちらにくるではないか。 「私の説明で道がわかりましたか?」 恐縮至極である。当方、教えてもらった道が分からなかったわけではないので、その旨を告げて感謝の意を改めて表す。 秩父はなかなかいい場所だ。 さて、野坂寺のことである。 秩父の地は奥武蔵と言われる。なるほど、武蔵国の西方のはしに位置し甲斐国に隣接している。ついでにいうならば、現在は東京都に属している奥多摩にも名栗から抜けると非常に近い。これらの地域は埼玉、東京、山梨と今は別の都県の下にあるがもともとは同じ生活圏ではなかったのではないか。 話がそれた。 この野坂寺の由来が甲斐国と関係があるという。繰り返しになるが、野坂寺のある秩父は昔から武州であり、武州の揺籃の地とも言える。その地に甲州のあきんどが赴き、野坂寺のあたりで盗賊に襲われた。あきんどは盗賊に命を取られまいと、身に付けていた観音像を手にして「南無観世音」と一心不乱に唱えた。すると、摩訶不思議なことに、観音像からオーラが発せられあたり一面が眩いばかりに照らされた。これに驚き、惧れをなしたのが盗賊である。泣く子も黙るような厳つい顔つきの盗賊であったが、心根は顔つきほどには悪くなかったのであろう。観音像のオーラに照らされて心を入れ替え、あきんどに詫びるとともに即座に出家した。 あきんどもまた信心深かった。 出家に及んだ盗賊を見て、堂宇を建立し観音像を安置したという。 それが野坂寺である。 歴代室町将軍の墓所。臨済宗天龍寺派也。 そも、初代足利高氏は暦応2(1341)年に現在の御池・柳馬場の辺りに等持寺を建立す。現在の等持院は之にはあらず。 その2年後に墓所として併設されしが別院北等持寺と言ふ。之が現在の等持院也。院は高氏死去後に等持院と称し現在の名称となる。 其の後、本寺たる等持寺が応仁の乱の兵火により焼失したことにより別院たる等持院を以って本寺となし現在に至る。 等持院にある「霊光殿」には、尊氏公念持仏地蔵尊(伝弘法大師作)を本尊とし、禅宗の祖師達磨大師、等持院開山夢窓国師を左右に安置され、その前に歴代室町将軍坐像と江戸幕府開祖徳川家康坐像が揃ふ。 2003.03.07(金)撮影。 北野天満宮の西にある東向観音の中にあり。 頼光というのは源頼光のこと。 この頼光、熱病に魘(うな)されること一月。不気味なる法師が縄を頼光目掛けて投げるところを宝刀で斬りつける。その血痕を辿りて北野天満宮の北の塚に至り、塚を壊すと大きなる蜘蛛の現われたる。之は我が身を悩ましものの正体ぞ、と忽(たちま)ちに退治す。 この塚、様々に伝わりし。一つは畑の中にありし蜘蛛塚、今ひとつは船岡山南西の頼光塚なり。 時代の流れに逆らえず、何時しか人も昔を忘れる。よって今に至りて、その場所は定かならず。蜘蛛塚は上品蓮台寺に、頼光塚は東向観音にて祀られる。 写真は、之、伴氏廟也。この中に頼光塚あり。 2003.03.08(土)撮影。 |