近江町市場を出て道を渡ったところにある。近江町市場から直ぐ側なのだが、茶屋街に行った帰りに立ち寄った。 この神社、大市比賣命を祀ることから市媛神社。当日、ツアーなのだろうか、中型のバスが境内付近に止まっていたこともあって、神社の周囲を詳しく見ることが出来なかった。ともあれ、参拝には全く支障なし。 市媛神社は京都五条の市媛神社を勧請したのが始まりという。その勧請を行ったのが近江は犬上郡高宮驛の商人だったのだという。この近江出身というのがポイント。 このことと、市媛神社が近江町市場の近くにあるということは実は非常に関係がある。 これは、後から聞かされたことではある。 金沢にあって、なぜ近江町市場なのか。少し謂れを知りたいと思うのが人情。 そう、近江町市場の地に最初の市媛神社が鎮座していたのだ。近江の商人が建立した近江市媛神社があった。 このために、慶長年間に市街地整理を行う際に、近江町と名付けられたのだという。その後、数々の寺院とともに卯辰山に移され観音院の境内に遷座。又龜尾記には寛永16年とされている。社記には卯辰山への遷座は元和9年、稿本金沢市史には慶長15年とある。 そうして、卯辰山で長い時間が流れるが、時代が改まり明治5年11月に故地に遷座したという。 こうして聞いてみると、近江町の地名のもとになったと思われる市媛神社は卯辰山に移っても、近江町という地名はそのまま存続したというところが大変興味を惹く。 地名とは地霊なのではないだろうか。そのような想いを巡らせた。 浅野川のほとりに並ぶ主計町の茶屋街の中にひっそりと立つ寺がある。 臨川山源法院。 真言宗に属する、この寺の歴史の詳細は不明とされるも寺では弘仁2(811)年の建立と伝えているとのこと。確かな記録として、市史が伝える天保年間に積雪のため崩壊した建物を竹下武右衛門、酒井和左衛門ら2人を中心として再建したことが挙げられている。 確かに、正確な歴史は不明なところがあるのだろうけれども、今、主計の茶屋の側に構える寺を見ると歴史の古さを感じる。 実際はともかく、そこに人々を見守ってきた何かを感じてしまう。 町には有形無形で町を守る守神が存在する。神という表現は、もちろん比喩であり、仏であったりもするだろう。 そういうものがあると、そこに暮らす人々は精神的支柱を得て安心するもの。あるいは、人々の精神的支柱が形となって現れるのが寺であり、神社であると言っても良いかもしれない。 そうこう考えていくと、やはり古さを感ぜざるを得ない。 そんな、こちらの考えなど、とっくにお見通しのようにひっそりと源法院がそこにある。 近江町市場を抜けて暫く歩き、お城のほうへと足を伸ばす。 かつて大学があったころの入り口があったけれども今は入れないとの表示の手前に、アドレナリン、タカジアスターゼの創製で知られる高峰家旧宅と旧検事正官舎のある黒門前緑地の前を通って尾崎神社に至る。 4代藩主光高が家康公を祀った神社であり、北陸の東照宮とも称されていることから、かなり大きな境内を想像していたのであるが、それよりは小規模なもの。 あくまでも想像よりはという意味。 尾山神社ほどを考えていたのだが。 さもありなん、初めから、現在の地にあったのではなくて、北の丸に鎮座していたという。言うまでもないが、日光の東照宮と同じく神仏混交が色濃い。というわけで、明治6(1873)年に純粋に神社化され名前も尾崎神社と改められる。ある種の災難は、それだけに留まらない。明治政府にとっては、徳川家康は旧体制の創設者であり象徴。その象徴をご本尊とする東照宮は、あまり気持ちの良い存在とは言いがたかったろう。特に、維新の熱気覚めやらぬ明治の前半では、旧体制の象徴に寛容になるというのは難しい。明治9年に、金沢城が陸軍に接収されると北陸の東照宮も移転を余儀なくされた。 移転補償金もわずかであったために、尾崎神社は全てを移転することが出来ず、縮小を余儀なくされた。こうして、二段階にわたる縮小によって、現在の規模へとなったのだ。 縮小を余儀なくされたとはいえ、境内の歴史的密度はかなり濃い。 まず、一間の向拝が附属している本瓦型銅板葺で朱漆塗という拝殿は三間二面の入母屋平入で千鳥破風付。その拝殿に、丁度T字に一間二面の幣殿が接している。 その社殿をはじめ、中門、透塀が国の重要文化財に指定されている。中門は、幣殿と本殿の間の平唐門。これも本瓦型銅板葺で中々のもの。そこに菱格子吹寄桟の桟唐戸を建込み、両脇から透塀が延びて、本殿を取り囲んでいる。 本殿も、本瓦型銅板葺で、日光廟の仕上げを模す三間社流造となっている。 京王線で南平駅の一つ先の平山城址公園駅で降りる。駅前は武蔵七党日奉氏の分流である平山季重の館跡として知られる。宗印寺には平山季重の墓がある。 日野市平山6-15-11 弁財天は美女の神様。もともとは水の神様だけれども、水音から音楽の神、さらには音絡みで弁舌、知識の神とされた。 高幡不動には、立河原の戦いに敗れた上杉憲顕が自害した場所としても知られている。 |