足利学校


日本最古の学校施設。天文年間(1550年頃)には、彼のザビエルをして、「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と形容されるも、惜しいことではあるが、明治5年に伝統の灯は途絶えてしまっている。現在の施設は、昭和57年から始まった「史跡足利学校跡保存整備事業」によって平成2年に江戸中期頃の姿を復元したものという。
この足利の地は、源氏の名門にして、室町幕府を創設した足利氏の父祖伝来の地としても知られている。実際、この足利学校のすぐ横には、足利氏の居館の跡に建立された鑁阿寺がある。そのため、足利学校の創設者を、八幡太郎義家の孫で初めて足利を名乗った源(足利)義康の子の義兼とする説がある。その一方で、小野篁とする説もあり、実際、足利学校の中にある孔子廟には孔子と並んで小野篁が祀られている。また、奈良・平安朝時代に国毎に置かれた国学と呼ばれる地方豪族師弟教育機関に起源を求める考えもある。いづれも伝説の域を出ることはない。
足利学校が確りと歴史に名を刻むのは、室町時代に関東管領上杉憲実が足利学校の中興を成し遂げた頃から。憲実の手によって、学校長に当たる庠主制度が整備される。初代庠主は易学の権威として知られた鎌倉五山の快元。このことからも分かるように、足利学校の教科の内容は儒学を中心に易学、兵法などで構成されていた。もっとも、上杉憲実による「学規三条」に定められていたように、学生は入学とともに僧侶とされた。また、現在の大学のように講義を受けるということが中心ではなく自習を中心とし、在学期間も各自学生の任意とされたという。
2003年8月24日、高崎から両毛線にて訪問。

孔子廟内の孔子像。なお、孔子廟は徳川第4代将軍家綱の代に造営されたという。


孔子廟内の小野篁像

[参考]学規三条:@学ぶべき学問の内容や規則を守らない学生の在校の不許可A就学に不熱心な学生の在校不許可B学生は僧侶の身分とする
長栄山池上本門寺


本門寺は日蓮上人の亡くなった地に立つ寺として知られる。病に冒された日蓮上人は甲斐の身延山から常陸へと湯治に行く途中で、池上に立ち寄り、遂に病癒えることなく亡くなったという。時に弘安5(1282)年のことである。当時、池上一帯を治めていた池上衛門大夫宗仲の屋敷で亡くなったと言われているが、池上宗仲は日蓮のために7万坪とも言われた邸をもって寺院の建立を決心し、日蓮の直弟子である日朗を池上の地に招く。ここに、全国に200ヵ寺とも言われる末寺を抱える日蓮宗大本山の歴史が始まりを告げる。
もっとも、大本山としての形式を整えたのは、寛永の頃とのこと。境内に加藤清正室の層塔、前田利家室の層塔があることから分かるように、有数の大名の信仰を集めた寺である。
残念ながら、戦災によって伽藍の多くを焼失してしまったが、経堂は戦火を免れた他、数々の建造物も往時のままに復元されかつての威容をそのままに伝えている。
豊栄稲荷社


金王八幡宮の横に鎮座する古社。庚申塔群が心を和ませる。

金王八幡宮


渋谷発祥の由来ともなった神社。現在の境内は、渋谷氏の祖となった河崎基家の屋敷(城)があった所とされ、八幡宮も基家によって寛治6(1092)年に創建されたと伝えられている。渋谷という現在は若者の集まる流行の最先端の地にあって、古(いにしえ)を伝えていると言えよう。この辺りは、東に鎌倉街道、西に渋谷川、北東に黒鍬谷があるという天然の要害であったことも渋谷一族が城を構えた要因という。長らく、渋谷氏の統治するところだったものの、大永4(1524)年に後北条・上杉両軍の戦闘の際に、後北条軍によって焼き討ちに遭う。時代は下って、徳川家光が第3代将軍に決定したことを感謝して、守役の青山忠俊と春日局が慶長17(1612)に荒廃していた八幡宮の再造営を開始。その後も度々修繕がなされてはいるが、山門は明和6(1769)年あるいは享和元(1801)年のものとされている。
東本願寺金沢別院


さすが、北陸は金沢。一向衆の共和国が現実であったころを想起させるかのような存在感が金沢別院にはある。
残念ながら、建物は新しい。しかし、ここを信仰する人々の信仰心は建物の新しさとは関係ない。
商店街に面した側の山門は、新しい建物の中で一際存在感を示している。
この別院の前は駅前から近江町市場へと通じる大きな通りに面している。
金沢では駅前のホテルに泊まった。最初こそ、道が分からないのでバスを利用したが、駅前から近江町市場、武蔵ヶ辻まではそれほどの距離ではない。そこで、バスではなく徒歩で何度も往復した。そばに交番があり、その交番の前にある地下道への入り口から地下道に潜って道路を横断し武蔵ヵ辻に至る。
そうしたいわば金沢の中心部への入り口にあって人々を見守っている、一際大きな本堂にそう感じた。