蚕の社木嶋神社(木島坐天照御魂神社)


妙心寺から太秦を歩く。
電車を利用するという手もあったかれども、折角、京都に来たのだから京都の町を堪能したもの。別段、伝統的な家屋が立ち並ぶという訳ではない。普通の町並みといってしまえば、それまでではある。しかし、やはり京都の町というのは良いものだと思う。
この辺りを歩くのは初めて。当然に地図を持参。確認しながら歩く。地図で確認しながら歩いてはいるのであるけれども、いつもの通り、道に迷う。
途中で、地図を無視して、面白そうな路地のほうに入ってしまうというのがいけないということは分かっているのではあるのだけれど、これは止めることは出来ない。
そうこう考えながら、ぶらりぶらりと太秦の方角へ。
その途中にあるのが、三本鳥居で知られる古社「蚕の社」。正式には木嶋神社(木島坐天照御魂神社)。
この辺りが秦氏の本拠地であったということから、この社も秦氏が織物の神を祀ったのが、そもそもの起源とされている。推古12(604)年のことというから、その古さが分かる。少なくとも、続日本紀の大宝元(701)年の条に、この社の記述があるので、その頃には既に存在していたことになる。いづれにしても古社。貞観年間に正五位、長久年間には正一位に叙せられ、伏見稲荷や石清水八幡にも劣らぬほどの人気を誇ったことも知られているほか、三井家の祖・越後守高安を祀る顕名神社や承久の乱で後鳥羽上皇方に組して、付近で自害に及んだ三浦胤義父子を祀る魂鎮神社などの末社がある。
その他にも、非常に面白いことがある。木嶋社が鎮座する森は元糺の森と呼ばれているが、これは下賀茂神社がある糺の森に深い関係があるのだという。賀茂氏と秦氏は姻戚関係にあったことが知られていることから考えてもこのことは興味深い。
ちなみに、「蚕の社」という通称は本殿右側の養蚕神社に由来する。
補陀洛山六波羅蜜寺


2度目の訪問。
鎌倉時代の作で重要文化財の空也上人像、同じく重要文化財で、これも同じく鎌倉時代の作とされる平清盛坐像で有名。
これは前回の参詣の時に間近で拝見した。
六波羅蜜寺というとこうした彫像群を思い浮かべる向きが多いかと思う。この点、私の場合は、六波羅イクォール平清盛ら平家の京都における拠点、鎌倉時代では幕府の出先である六波羅探題の地、探題南方の北条時輔が二月騒動で討たれた地、それから鎌倉幕府軍と倒幕軍とが攻防を繰り広げた地といったことが浮かぶ。
京都は数々の歴史の舞台となったところであり、そこかしこに歴史の息吹を感じることが出来る。それでも、六波羅と聞くといろいろなことを思い浮かべる。
その六波羅の地に、天暦5(951)年に醍醐天皇の第2皇子光勝空也上人が建てたのが六波羅密寺。ということは、平家の興亡に先立つわけで、この寺はそうした歴史をずっと見つづけてきたということになる。益々、歴史の流れを感ぜざるを得ない。
空也上人亡き後は中信上人によって支えられ天台別院として大いに栄えたと言う。
そして、将に、この六波羅密寺の地に平忠盛が拠点を構え、清盛・重盛の代にわたって多くの邸宅を境内に構えたとのこと。この寺は平家政権の中枢に位置していたということになる。目を瞑ってみると、CGの如くに荘厳な邸宅群に囲まれた街区が蘇る。
平家の滅亡は、そうした街区を灰燼と化すものだった。当時を物語る平家由来の建物が、六波羅の地にないことが、そのことを示している。六波羅密寺は源頼朝によって復興されたものの、それからも災難は続き、北条時輔追放の二月騒動の際にも、倒幕軍対北条軍の戦いの際にも、六波羅は戦場となった。
六波羅の地にようやく平安が訪れたのは、足利氏が統治するようになってから義詮によって復興が図られてからと言えるのだろうか。時代は下って、豊臣秀吉による今は無き大仏建立の際に修復がなされてから以降は兵火に焼かれるという歴史を経ずに現代に至っている。
現在、目にすることの出来る本堂は非常に歴史が古く貞治2(1363)年のもの。新しく感じられるのは、昭和44(1969)年に解体修復がなされたということと、歴史に魅了されて訪れる数多くの人々と人々の信仰がそうさせているのかもと感じる。
大椿山六道珍皇寺


小野篁が冥界へと赴く際の入り口があったとされる寺。ちなみに出口は嵯峨野の清涼院。空海の師慶俊僧都による創建という言い伝えもあるが、現在の寺院は建仁寺の僧・良聡が貞治3(1364)年に再興したもの。その際に臨済宗に改宗しており、近くにある建仁寺に属している。
門前が六道の辻と呼ばれる場所であり、平安朝の葬送の地である鳥辺野の地名に残しているところでもある。六道というのは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六種の冥界のことであり、現世の人々が必ずどこかに行くのだと考えられるところ。かつては、この辻に死者を運び野辺送りをしたのだという。
ということで、六道という名称は納得がいく。気になるのは珍皇寺という名。
何でも、平安遷都以前に東山阿弥陀ケ峰山麓を勢力圏としていた鳥部氏の氏寺の宝皇寺が珍皇寺の前身だとのこと。宝皇が珍皇に転化したのだろうか。
瑞応山大報恩寺(千本釈迦堂)


千本釈迦堂といったほうが分かりやすい。北野詣でをした後、上七軒を通って千本釈迦堂に赴く。3月という季節のせいもあるのだろうか、この辺りには観光客が少ない。ほとんど見かけなかったと言って良いかもしれない。この由緒正しき場所に辿りつく間の道も実にのんびりとしている。
この釈迦堂は京都中を焼き尽くした応仁の乱の際にも戦火を免れたという貴重な寺。この一帯は東軍西軍入り乱れて刃を交わした所であり、実際、本堂の中には刀傷を認めることが出来る。そのような中にあって、焼失を免れたということは、将に寺の紹介の如く奇跡としか表現のしようがない。
そもそも、この釈迦堂、正式名称は大報恩寺ではあるけれども、通称で通させてもらうとして、安貞元(1227)年というから鎌倉時代の初期に当たるけれども、その年に東北の勇、藤原秀衡の孫、義空上人によって創建されたという古い歴史を持っているという。東北に花開いた藤原三代の栄華の名残に京都で出会うことが出来るとは思いもしなかった。本堂は、その創建当時の姿をそのままに現代に伝えている。寺地は、創建に先立つ承久3(1221)年に藤原光隆の臣である岸高の寄進によるもととされる。当初は一仏十弟子像に小堂のみだったが、倶舎、天台、真言の三宗の霊場として大規模伽藍を営むに至ったという。それらは、本堂を残して応仁の乱で灰燼と化したことは誠に残念。
とはいえ、行快作の本尊釈迦如来坐像、快慶作の木造十大弟子立像、六観音菩薩像、千手観音立像などを始めとする多くの文物は焼失を免れている。
その意味で、将に千本に咲くタイムカプセルと言える。
この寺、もう一つのエピソードが知られている。「おかめ伝説」が、それである。千本釈迦堂建立に際して、大工の棟梁が柱を誤って短く切ってしまったことを知った妻が、短い柱に合わせて全ての柱を切りそろえるように智慧を授ける。これで目出度し目出度しといけば良いのであるが、この優しき妻は夫の失敗が露顕することを恥じて釈迦堂完成前に自らの命を絶ってしまったという。誠に切ない話である。この"おかめさん"を供養するために"おかめ塚"が築かれ、また、全国の大工の信仰を集めるようになったとのこと。
本堂の脇では沢山のおかめさんの像などが、ふくよかな顔で出迎えてくれる。その顔を見るだけでは心和むだけであるけれども、その謂われを知ると、少し胸に来るものがあった。
真言宗大本山鑁阿寺


八幡太郎として知られる源義家の子の義国と義国の次男である義康の2代にわたって造営された足利氏宅の跡に立つ。ちなみに、義康の兄の義重は新田氏の祖である。義康の第3子である義兼が晩年に自らの邸宅内に七堂伽藍を建立したことが鑁阿寺の始まりとされている。
義兼は初めての武家政権、鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝の従弟であるとともに、北条政子の妹である時子を妻としており、頼朝と同じ源氏一門として幕府の一翼を担った。
こうした関係から、頼朝の嫡流が途絶えると、
足利氏は自らを源氏の嫡流と見做し、義兼6世の孫、高氏の代になって、政権を北条氏から奪って室町幕府を創設することになる。
鑁阿寺は金剛山仁王院法華坊鑁阿寺というのが正式の名称。その山号にあるように、最初は高野山の末寺として始まり、室町から江戸にかけては京・醍醐寺の傘下に入り、江戸後期からは大和・長谷寺の下にあった。しかし、終戦とともに、独立し真言宗大日派を興して現在に至っている。
様々な寺の流れを受けているようではあるが、鑁阿寺は一貫して足利氏由来の寺であり、足利家揺籃の地の面影を伝えている。この日は、足利学校から鑁阿寺へと足を伸ばした。学校の門の前を横切る細い路地を進むと山門の前の広い道に出る。そこから曲がると、山門が正面に見えてくる。その有様は寺ではない。境内の周囲に堀を巡らし、山門までは堀に橋が架かっているところなどは、なるほど中世の平城の跡、そのままと言える。


[経堂]応永14(1407)年、関東管領足利満兼再建。本瓦葺、重層宝形造り。国指定重文。この形を見て、金閣・銀閣を思い浮かべたのは私だけだろうか。経堂の中には京・等持院と同じく歴代足利将軍の木像が安置されている。但し、こちらは15代全て揃っている。