壇ノ浦の戦いに敗れた平氏一党は西国から全国各地へと散っていった。しかし、源頼朝率いる関東勢の追求激しく、次第に山奥へと追い詰められていった。その中の一部が川俣へと落ち延び、自らの出自を隠すために、鎧冑をこの塚に埋めたという。 以来、この塚を見ると目が腐り、指差すと指が腐るという言い伝えが残された。塚のもとには鎮魂のための小社が建立されている。 近くにはまた、平家平という地名やもう一つの平家塚がある。 816 新吉原三浦屋の高尾太夫を祀る神社。 高尾太夫は隅田川三又で仙台侯伊達綱宗によって吊るし切りにあって遺体は打ち捨てられたという。時に、万治2年のこと。 高尾太夫の遺体が打ち上げられた地に太夫を祀ったのが高尾稲荷社である(旧東神倉庫内)。 その後、明治5年には日銀や北海道開拓庁が、この地に建設されたことに伴って移転。 なお、昭和50年には同地より太夫の頭蓋が発掘され、伝説の正しさが改めて証明された。 もともとは、50メートル西の湯前神社の境内にあった。しかし、昭和24年のキティー台風によって湯前神社が被災。薬師堂を除いて壊滅した。 その残った薬師堂を昭和51年に現在の地に移築したという。 見るかに古いということがわかるが、栗山村で一番古い建築物とされる。また、起源としても、宝暦11(1761)年の御神籤箱が残されているというようにかなり古くまで遡る。 京都東山のシンボルと言って良い。もう何度も東山に訪れているが、いつも、どこからでも見ることの出来る八坂の塔を目印にして歩いている。 今回は3月。春に近いというのに雪が降った。京都で雪を見たのは2度目。その雪がハラリと舞う中での八坂の塔の何と美しいことか。 駅に向うために、その場を離れることが惜しい限り。未練がましく八坂の塔を最後まで、見えなくなるまで見つづけようと振り返り続けた。 この塔、臨済宗建仁寺派に属する歴とした寺院。その本名を霊応山法観寺という。 創建は古く、聖徳太子が如意輪観音の夢のお告げにより589年に建立したと伝えられる。 境内で飛鳥時代の瓦が出土していることからも、寺の規模がどの程度かは定かではないものの古寺院であることだけは確か。つまり、もともとは大きな寺院であり決して塔だけではなかった。それが、治承3(1179)年に巻き起こった清水寺と祇園社との争いの巻き添えによって堂宇を焼失。その後も二度焼けたとのことで、結局は永享12(1440)年に室町6代将軍足利義教によって再建された五重塔のみが残った。 |