金剛輪寺(湖東三山)


松峰山金剛輪寺、天台宗。西明寺のすぐ近くにある。ここも古刹であり、天平9(737)年に行基が創建したと伝えられている。平安時代に延暦寺の円仁が再興。織田信長の焼き討ちに遭うが、「天平大悲閣」と呼ばれる本堂は焼失を免れた。
西明寺(湖東三山)


龍応山西明寺、天台宗。
三重塔は本堂とともに国宝。承和元(834)年に仁明帝の勅願により三修上人が創建。境内に大きな池があることから池寺との呼ばれる。柿葺(こけらぶき)・八脚の二天門、七間四方の本堂、そして三重塔は織田信長の焼き討ちを免れ現在に匠の技を伝える。
百済寺(湖東三山)


釈迦山百済寺(ひゃくさいじ)。推古14(606)年に聖徳太子が渡来人のために創建した古刹。百済の梵閣龍雲寺を模したとされる。平安時代から鎌倉時代にかけては1000にも及ぶ坊が連なったと言われ、近江では延暦寺に次ぐと称された(湖東小叡山)。しかし、天正元(1573)年に織田信長の焼き討ちに遭い跡形もなく灰燼に化した。本堂、仁王門は慶安3(1650)年の再建。
中尊寺


金色堂

金色堂は覆堂の中にあり、このスケッチのように見ることは出来ない。
天台宗、関山中尊寺。
陸奥の名刹。自覚大師円仁が開いたとされる弘台寿院(850年開山)を前身とする。後三年の役(1087年)の論功行賞で陸奥押領使に任ぜられた藤原清衡によって中興され中尊寺(天治3[1126]年)となる。建造に21年という長い年月を費やした清衡中興時、堂塔40、僧坊300と言われる威容を誇った。覆堂の中に守られた金色堂は藤原氏の手による平泉文化の象徴。三間四方の宝形造の面を黒漆で堅め、その上から金箔をおしている。京文化を模倣しつつも、見事にそれを超越している。
内部は奥州藤原氏の廟所となっており、阿弥陀三尊など11体の仏像の下に清衡、基衡、秀衡の三代のミイラと泰衡の首級が安置されている。
[国宝]金色堂内具、螺鈿八角須弥壇、紺紙金字一切経、孔雀文磬
[重要文化財]経蔵、旧覆堂、金銅千手観音像御正躰など
[交通]東北本線平泉駅下車、バスに乗り換え中尊寺へ
園城寺(三井寺)


新羅善神堂

天台宗、長等山園城寺。天智、天武、持統の三帝が産湯として使った井戸(閼伽井屋)があることから三井寺とも呼ばれる古刹。壬申の乱(672年)で敗れた弘文帝(死後追号、大友皇子)の皇子である大友与多王が追善のために開基。その後、廃れた寺勢を祖智証大師円珍が延暦寺別院として中興した。この時に、三部灌頂の儀式の法水に閼伽井屋を利用し御井としたのが三井寺の名称の始まりという伝承もある。
もともと、古代豪族の砦の跡とも考えられているものの、周囲を囲む石垣などは円珍死後の比叡山円仁派(山内派)と円珍派(寺門派)との抗争の歴史によるもの。古来、清和源氏との繋がりもあったことから南北朝時代には全山焼き討ちにも遭っている。新羅善神堂は1347年建造と山内最古の姿を今に伝える。金堂は、豊臣秀吉正室北政所が慶長4(1599)年に再建。
[国宝]金堂、新羅善神堂、光浄院客殿、観学院客殿、紙本墨画五部心観、木像新羅明神坐像
[重要文化財]仁王門、閼伽井屋、三重塔、経堂、食堂(じきどう)、毘沙門堂、大師堂・唐門・灌頂堂・四脚門の唐院など
[交通]京阪電鉄石坂線浜大津駅で下車、京阪バスに乗り三井寺へ